欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ⑮ | 草村もやのブログ

欧州に咲いた女優たち――貞奴と花子 ⑮

花子⓶

ロイ・フラーという女性

 

 

貞奴と、年齢的には3歳ほど上になる花子は、会ったことがあるのだろうか。

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1907年1月ごろ、花子は、パリに着いた、と、ロダンに手紙を送っている。

この年、川上夫妻は、ロイ・フラーの手配で、レジャン劇場に出ていた。

川上一座の最後になる、日本に劇場や俳優養成学校を作るための資金集めと取材の、第3次欧州興行であった。

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花子39歳、貞奴36歳、音二郎43歳。

花子はロダンと再会、モデルになっていた。

巡業と巡業のあいだの、わずかに自由な時間であった。

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花子が貞奴を訪ねたのだったろう。

ふたりをプロデュースしたロイ・フラーが、いかにお金にいい加減で、「之が貞奴を抱へて金を払はないで、非常に苦しめた奴」と花子が語る通りの、旅する者同士の、情報交換メインの交流だったのだろう。

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1905年、ロイ・フラーは、ロンドンのサヴォイ劇場に出ていた花子を、貞奴の2匹目のドジョウとしてスカウトし、花子一座として売り出した。

大当たりしているのに、一座解散に追い込まれるほど金払いが悪く、花子はフラーを恨んでいた。

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貞奴も同じ経験をしたのを、この時、聞かされたのだ。

「フラーはお金に汚いから用心に越したことはないわよ」と貞奴は助言しただろう。

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この後、花子一座は、短期間アメリカ巡業にも出たから、4月に帰途についた貞奴と、ふたたび顔を合わせることはなかったと思われる。

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花子の話しぶりだと、ふたりの会話は、同世代、少し時期をずらして、同じような道を歩いている芸能者同士の共感に満ちたもので、異国で苦労するお互いを認め合い、気持ちを寄り添わせていたものであったろう。

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このふたりにからむ、ロイ・フラー(1862ー1928)という女性もまた、この時代のパリを中心とする舞台史に、大きな足跡を残している。

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アメリカ、シカゴ出身のダンサーで、薄い大きな布を、棒につけてひらひらと舞わせ、当時新しかった電気の照明を当てる、というモダン・ダンスで、一時、人気を集めた。

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イサドラ・ダンカンも、彼女に見いだされて、スターになった。

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李鴻章がすっかり惚れこんで、彼が入れあげた品々が、彼女の居間・寝室の装飾品から夜具・蒲団等々、残っていた。

音二郎は、それらが「日本の道具に類したものが多かったので、是幸いと枕や蒲団その他の道具を借り出して、盛遠の芝居に使った」と語っている。

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ロイ・フラーをモデルとした映画『ザ・ダンサー』(2016)も、おもしろかった。

まるで新体操の選手のように、自由に布をひらめかせていた。

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こうしたダンスにみられるように、時代が何を喜ぶか、見抜く力を持っていて、受けると思えば、破格の契約にもゴー・サインを出して舞台に連れ出すのだが、契約無視の常習犯で、泣かされるのは、いつも演者の方なのだった。

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川上音二郎一座は、ギャラを半額に値切られたうえ、舞台の数を2倍に増やされて、泣き寝入りしたし、花子の方は、いくら大入りでも、チケット代はすべてフラーの口座に入るばかりで、契約通り座員に支払われることがない有様だった。

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映画『ザ・ダンサー』には、フラーに理解のある貴族のパトロンが出てくるが、これは実在しない。

本人は、レズビアンだったと思われる。

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ある意味しっかりと自立し、生き馬の目を、抜く側に側に立っていた<実力>の持ち主であったのだ。