病気をして/老いてはじめて見えたこと、知ることができたことがあり、人生が深まることは間違いありませんが、見えなくても/知らなくても良ければそのほうがよかった、人生が深まらなくても元気なほうが良かったと思うのもきっと「人の常」です。

 そのような深まりがない人の人生が劣ったものであるということでもありませんし、そんな経験をしなくとも人生はそれなりに深まります。

 

 「こんな経験をしてよかった」というのは、その経験をした人の自己承認です。自己承認できなければ、生きていくことは辛い(そこで悩んでいる人も少なくありません)。

 

 自己承認には「やせ我慢」という側面があると思います。他人からはどんなに素敵に見える人生だって、本人には「やせ我慢」している部分がきっとあります。「あちらの/別の途のほうが良かったのではないか」という思い、なんらかの理由で「あちらの途に進めなかった」という“悔い”と無縁の人生はありません。

 「でも、まあ、この人生で良かった」「まあまあの人生だった」「わが人生に悔いなし」と言うとき、多少なりとも人は無理しています。

 

 一人一人の思いはもちろん違います(状況も違う、人の考え方も違うのだから)。ひとくくりにして語るようなことではありません。

 どのような患者さんの思いも“正しい”のですし、患者さんの人生そのものが私たち医療者にとっての“先生”です。そして、人生を呪詛するばかりの人の人生だって、否定されるべきではない立派な人生だということは忘れないようにしたい。

 

 誰でも自分が納得できる(自己承認できる)自分についての“物語”が必要です。そのためには、そばにいて話を聴いてくれる人の存在がきっと必要です、「そうですよね」「それで良かったんですよ」と言うか言わないかはどちらでもよいけれど。(〈2022.8.15~8.25「病むとはどういうことか」〉にも書きました。)

 

 それは「受容」というような言葉に収まることではありません。「受容」という言葉は、医療者のほうから肯定的に語る言葉ではないと思います。「受容」を目標としたり、賞賛したりすることは、医療者がするべきことではないのではないでしょうか。

 「受容」という言葉には、あからさまな権力性が含まれている」(安藤泰至「「病の知」の可能性」医学哲学・医学倫理23号 2005)のです。

 

 患者さんの、「やせ我慢」の辛さと、やせ我慢しながら言葉に出す“気高さ”に医療者はきちんと向き合っているでしょうか。

 「こんなことがあって良かった」というのと「無ければ無いほうが良い/無かったほうが良い」というのは、二項対立していることではないと思います。そのはざまで人は生き、そこに周囲の人が一緒にいようとするときケアが生まれます。

 

 当事者でなければ見えないことがあるのは間違いありません。患者さんに見えている世界のほとんどは医者には見えていません。

 医者に見えるのは、医者という立場から見えた/想像したことでしかありません。だから、「苦悩する者としての患者は、医師に対して何らかの形で優れている」のです(V.E.フランクル『死と愛 実存分析入門』みすず書房1983)

 いやきっと「すべての形で優れている」。そして、そのことに患者さんたちはみんなとっくに気づいています。