下旬に白内障の手術を受けました。

 年齢的には、むしろ「なって当然」の病気です。ここ数年、近視がどんどん進行したので(核白内障というタイプです)「いつかは」と「覚悟」していたのですが、4月の診察でも進行していましたし、ちょうどほどよく仕事の空く時期ができたので、手術を受けることにしました。1ケ月近くが経ちましたが、今のところ経過は順調なようです。

 

 術後、少し眩しいくらいに周りが明るくなりました、世界情勢や日本の政治は暗くなるばかりですが。

 白いものが真っ白に見えるようになって、「そうそう、白ってこんな色だったな」と少し驚きました。これまでの白は、実際にはやや黄色めの濁った色に見えていたことを知りました。

 

 20年前に作った「度の弱い」眼鏡(貧乏性なので捨てられなかったのが幸いした)が遠くを見るのにちょうど良くなり、とても世界がくっきりと見えるようになりました(ブラウン管の画面から地デジの画面くらいの変化/もしかしたら4Kに変わった?)。これで人生のことも良く見えるようになると良いのですが、それは難しそう。

 

 2週間ほどは読書も控えめにしたのですが、ますます頭が悪くなりそうで焦りました。料理も、手元がなんとなくおぼつかない感じがして、少し控えめにしました。

 

 白内障の手術は紀元前800年ころからあったようですが、現在のような治療法が確立し広まったのは1990年代です。医療の進歩はありがたいと感じること頻りですが、でも、この道は、多少の紆余曲折はあるにしても心臓移植まで一本道だなと手術を受けながら考えていました1)。「脳死」をどう考えるかというところに、大きめの段差はありますが、論理的には「歯止め」を掛けることのほうが難しい。

 

 小松美彦さんは『共鳴する死』という概念で脳死を批判していますが、「共鳴する」というところにある危うさ(「共鳴」=共同性に依拠することで個が抑圧される可能性がある)を小泉義之さんや立岩真也さんは指摘します。みなさん「脳死」には批判的ですし私もですが、それだけで済むことではありません(現に脳死-臓器移植で助かっている人たちがいます)。

 

 医療現場の倫理は、いつも板挟み/答えが出ない/いかようにも答えられるところにあります。その「面倒くささ」「ややこしさ」から逃げないために、倫理は語られるべきものです。「これでいいのか」「それでもこんな問題がある」と問題を問い続けるためのものです。少なくとも、医者のやろうとしていることを後追い的にゴーサインを出すためのものではないはずです。

 

1)「人工的な延命」と「自然な死」が対比されることがあります。でも、「じつのところ、どこまでが自然の生で、どこから先が人工的に生かされることになるのか、その境界をどこに置けばいいのか、私にはわからない」「「いま食べている刻み食も、延命工作ではないだろうか」と人は言う。・・・この病院に入院させていただいたのも延命策であり、訓練に励み、なるべく起きていようとするのも延命策だ」川口武久『続しんぼう—生きて生かされて歩む』静山社1985(立岩真也『良い死』から引用)