今年も6月15日がきました。

 1960年6月15日、安保条約改定に反対する全学連のデモが衆議院南通用門から国会構内に突入した際、阻止しようとする機動隊と学生たちの衝突の中で、当時東大生であった樺美智子さんが亡くなりました。

 

 彼女は1937年11月生まれですからちょうど私の10歳年上です。私は中学1年生でしたが、バス通学していたので、帰宅途中の三条河原町のバス停で、デモのためになかなか来ないバスを待ちながら通り過ぎるデモを毎日見ていました。

 

 私は、1967年に大学に入学しました。当時、ベトナム戦争が激しさを増し、医学部ではその「古い(封建的と言われた)体質(教授に権力が集中する医局講座制など)」をめぐってインターン闘争が行われていたので、私は自然に学生運動に参加しました。(このあたりのことは〈2023.6.23「私の大学時代/学生運動の時代(1)」〉に書きました。) 樺美智子さんのことは、誰の記憶にも新しい時代でした。 

 

 60年代後半から70年代の学生運動/反戦運動では、多くの学生が亡くなりました。デモ/実力闘争の中で、内ゲバで、そして自死。教員の中にも自殺した人が何人もいます。(医科歯科大学でのことは〈2023.6.25「私の大学生時代/学生運動の時代(3/3)」〉に書きました。) 機動隊員にも死者が出ました。

 

 その時代に学生であった人の中に、しばしば「隅っこにいた」「ストに賛成しただけだったが」「少しだけ参加した」と言う人がいます。本当に中心にいた人はその時代のことを語れない/語らないものですから、その通りなのではないかと思います。

 でも、端っこにちょっとだけ参加したとしても、その時代の流れの一部として、こうした死者に対してなにがしかの責任があると思います。このような言葉には、当時の運動の否定的な側面(それは小さくない)についてのいくばくかの「責任回避」があるような気がします。でも、それだけではなく、その後生き続けてきたことへの“負い目”を背負ってもいるのだと信じたい1)

 

 「死者がもし、あの世から告発すべきものがあるとすれば、それは私たちが、いまも生きているという事実である。死者の無念は、その一事をおいてない。死者と生者を和解させるものはなにひとつないという事実を、ことさら私たちは忘れ去っているのではないか。」2) (石原吉郎『海を流れる河』花神社1974)

 

 1980年ころ、まだ木造の古色蒼然とした建物ばかりの武蔵野赤十字病院の救急外来を、美智子さんのお母さんの樺光子さんが受診されました(武蔵野市にお住まいでしたから不思議ではありません)。たまたま小児科当直でその場に居合わせた私は受診者名簿で気が付き、それまでも何度も集会でお顔を拝見していたのですぐ分かりました。具合が悪い時なのだからと思い、声をおかけしたりはしませんでした(当直医には言ったのですが、その人はもう樺さんのことも60年安保のことも知りませんでした)。

 

 「声なき声の会」(この会のことについては〈2023.6.28「「声なき声の会」/小林トミさんのことなど」〉にも書きました)は、それ以来ずっと6月15日に衆議院南通用門で献花をし、集会をしておられます。今日も。

 

1)これもサバイバーズ・ギルト(生き残った者の罪悪感)だと思います。私は、病気のために幼くして亡くなった子どもたちにも同じような思いを抱き続けてきました。

 

2)運動の中で、大学を辞めていった人たちも少なくありません(医学部にもいます)。私にはその人たちに対してもある種の罪悪感があります(罪悪感を抱くことも傲慢かもしれませんが)。大学6年生のころ、その思いから「どんな医者になるのか」と自問し、その人たち(もちろん死者を含みます)に「恥じない生き方」についてとりあえずの答らしいことが言えなければ卒業できないと思い悩んだ気持ちは、今でも鮮明に覚えています。卒業してから51年経った今も思い続けていますが、どうだったかは心許ない限りです。