「小児科では患者さんの死ぬことが少ないから、良いよ」と医学生に言う小児科医がいます(昔も今も)。私が小児科医になろうとしたときに「子どもの死ぬのを見るのは辛いからやめたほうが良い」と言ってくれた人(看護師)もいました。

 

 でも、短い入院をするだけでも「死ぬ思い」をする子どもたちはいっぱいいます。生物としての命のことだけを考えていると、なにかを見過ごしてしまいそうです。

 

 オトナから「生きる」ことを阻まれる(精神的に殺されている)子どもは無数にいます。自我を育んでいる途中(だれでも、一生その過程にあるのですが)の子どもを、オトナは無意識のうちに「殺して」しまうことがきっといっぱいあると思います。小児科医が、そのオトナの一人でないという保障はありません。

 

 学生時代、臨床実習時に眼科の助教授が「眼科は良いよ。僕なんか死亡診断書を書いたことがないくらいだから」という言葉を、「眼科にとっては、失明は死亡診断書と同じようなものなのに」と思って聞いていたことを私はなぜか忘れられないでいます。それって「医者としては何かが足らないということではないのか」と感じていたような気もします。

 

 もちろん、「命あっての物種」ですから、生物として生きるのと死ぬのとは絶対的に違います。こうした言い方は、自分の診療科の“魅力”を後進に分かりやすく言うための言葉の綾です。

 

 とはいえ、自分のしている医療を、患者さんが生きるか死ぬかで評価するのはどうかと思います。患者さんが生きる病気か亡くなる病気かにかかわらず、自分が医師として患者さんとどのように関わろうとしているのかという姿勢、その姿勢を小児科という場でどのように貫いているかを語ることが後進への誠実さではないでしょうか。

 

 大学を卒業する時点で、あらためて小児科医になろうと思った私は、「子どもが好き」「子どもがかわいい」という感覚に孕まれている、子どもを「庇護」すべきものとみる「上から目線」とは訣別していました。

 「これから成長していく人間」にとって、その子どもになんらかの働きかけをせざるをえないオトナは、否応なく「障害物」として(敵として)関わるという側面を免れない。「加害性」を抱えながら、それでも「子どものために」関わるという葛藤のなかで生き続けることを自分の課題としようと思いました。

 

 それから10年以上も経って「「子どもとおとなは運命的に、敵対関係を結ばざるを得ないのだ」「敵として対峙しなければならないこともあるのだ」と思っていれば、些細な敵対行為など可愛いものです。大人と子どもとは、全面的に一致し、徹底した味方の関係を組み得ないことを認識することで、両者の関係はもしかしたら変わってくるかもしれません」1)という本田和子さんの文章に出会った時、ホッとしたことを思い出します(『子どもの発見』光村図書出版1985)。(2022.10.9〈「良い評価の裏にある不満は見えない」〉にも書きました)。

 

子どもたちのことを「なんとかしてあげる対象」として「支援の方策」を考えていくことはもちろん重要です。でも、それは同時代を生きる年若き友人」としてその存在ときちんと向き合うという芯がなければ危ういことだと思います。

 

1)この「子ども」を患者に、「おとな」を医者に読み替えることが、患者-医者関係を良好なものとしていくためには欠かせないと思っています。