「医師の「上手い」コミュニケーションを、ACPが円滑に進むことにつなげたい」という趣旨の文章の後ろには、医師の説明の際にしばしば同席者と患者さんとの間に齟齬が生まれ、同席者が「うまく診療に参加できない」場合があることや、ふだん同居していない家族などにも「適切に役割を果たしてもらいたい」という思いがあるようです。

 

 そこに「患者さんの意志を尊重したい」という思い(タテマエ?)があるのは確かですが、「うまく参加してほしい」「適切に役割を果たしてもらいたい」という医療者(の都合)中心の発想が見え隠れします。

 

 私は小児科医なので高齢者医療についてよく知っているとは言えないのですが、身近な医療者が「それまで来たこともない/患者さんと関わってもいない家族や遠縁の人が出てきて、患者さんが「納得して」出している結論と違うことを求めるので困る」と言うのを何度も耳にしました。

 

 患者さんがDNRの意志を示しているのに「最後まで、できることをなんでもしてほしい」と「勝手」なことを言って医療側が振り回されて困る。「せっかく話し合ってDNRということになったのに/ACPをまとめたのに」という思いが医療者にはあるようです(DNR/DNARについては、〈2022.5.13-515〉に書きました)。

 

 「まとめる」までには多小なりとも「誘導」がありそうですし、その方向で自分たちは「努力」したのにという思いもあるでしょう。

 「過剰治療」「無駄な延命」「無意味な治療」「金喰い虫」などという思いが底にあれば、こうした声はなおさらノイズとしか感じられません。ノイズと感じるところにはきっと医療を考え直すきっかけが孕まれているのですが、そんなふうに考える“ゆとり”はなさそうです。(ノイズについては〈2022.11.11〉に書きました。) 「ACPでちゃんと書いてあれば、そのような事態が避けられるのに」とも。

 

 「いつまで治療をするんだ」「こんな形で生かしておくなんて」「医者の金もうけではないのか」などと、本人の意思に関係なく治療の中止を求める家族もいます(私の母は、祖母の最後のころ、そのように言って父を非難していました)。

 

 患者さんと医療者とのやりとりが詳しく記載されているDNRやACPを「葵のご紋」のようにして、「外野」の声を抑えることはできるかもしれませんが、不満はいっそうくすぶり続けます(「外野がうるさい」と言う医療者にはしばしば出会います)。

 

 患者本人とは異なる「思い(意見)」を述べる家族や、初めて顔を出して治療方針について「勝手な希望」を言う親族のことを「外野」と見ている限り、そして「勝手だ」と思っている限り、医療者が「上手な」コミュニケーションで「仲だち」をしようとしても不満は消えないでしょう。

 

 「生を終らせることに「手を下す」ことはしたくない」「今まで何も関わってなかったからこそ、できることをなんでもしてほしい」、「つらくて今の姿を見ていられない」といった思いを、外野に居る人は抱きません。外野とは無関心な人のことです。

 

 そばで見ていて/聞いていて、無関心ではいられない。「もやもや」した思いが膨らんでくる。何か言わずにはいられない(が、何をどう言えばよいか分からないので、しばしば“的外れ”になってしまう)。そうした人たちを交えて、陣形を組みなおすしかないのではないでしょうか。

 

 そうすることは、どんどん患者さんを退院させてしまう大きな急性期病院ではもう難しいのかもしれません。信頼できそうな医療者を見つけることも、そのような医療者と付き合いを積み重ねて、落ち着いて話し合うことも難しそうです。

 だとしたら、急性期病院では、ACPを話し合える“ゆとり”のある患者さんはほんのわずかしかいないはずです。「人生会議をしよう」と言われて、「それは“今”“あなた(がた)と”できる(しなければならない)ことなのですか」という戸惑いを心に押し殺したまま応じている患者さんも少なくないのではないでしょうか。

 

 「日本のACPの先駆者として日々現場でACPを行っている医師とケアマネジャーが、そのノウハウを分かりやすく、かつ楽しく解説します。医療介護の現場でよくある症例を取り上げ、ACPの進め方を会話形式で紹介しているため、本書を読むだけで、あら不思議、すぐにだれでもACPを上手に実践できるようになることでしょう」(西川満則/大城京子著『ACP入門 人生会議の始め方ガイド』日経BP社2020 出版社による宣伝文)。こんな「乗り」のACPでは、誰もが傷つくしかありません。