会話分析の誕生は、社会学者のE.ゴフマン(1922-1982)に大きく影響されています。(『行為と演技―日常生活における自己呈示』誠信書房1974、『儀礼としての相互行為―対面行為の社会学』法政大学出版局1986など)

 

 人は、自分が接する人(単数/複数)に対して、自分の面子を保とうとして「演技」―「印象操作」をします(望ましい印象を強調し、望ましくない印象を隠ぺいしようとする/計画された「なにげなさ」)。目の前の人(たち)は自分の演技空間の観客(オーディエンス)です。相手に応じて「演技」は変わります。

 自分の「面子」を保ち、相手に敬意を払ってもらえるように振る舞います。セルフエスティームを高めようとします。そのためには、相手に尊敬されるような「品行(品位ある行為)」を行い、先に相手に敬意を表す(自らを低い位置に置く)ように心がけます(面子を守るために「謙遜」をします)。

 同時に、舞台を降りたところではホンネが出せますので、相手(オーディエンス)を非難したり悪口を言ったりもします(そのことが表舞台での自尊心の損失を埋め合わせます)。(奥村隆『反コミュニケーション』弘文堂2013を参考にして、勝手にまとめています。)

 

 こうしてみると、患者さんと医者との関係にかなりあてはまりそうです。会話を分析することでこうした背景を考えてみることができると思いますが、権威勾配を見すえた会話分析でないと、かえって患者さんから遠ざかることもありそうな気がします。

 

 滝浦真人さんは「ポライトネス(言語的対人配慮)・・・が日本に紹介されたとき、その理論が依拠している人類学的・社会学的基盤(具体的にはデュルケームとゴフマン)を抜きにして、対人的な言語使用の語用論的側面だけが「方略」として取り上げられたために、まずもって社会的な人のふるまいについての理論が持つはずの厚みが十分に伝わらなかった」と言います1)(「ゴフマンと言語研究-ポライトネスをめぐって」中河伸俊/渡辺克典編『触発するゴフマン やりとりの秩序の社会学』新曜社2015)。

 

 平田オリザさんは「対話とは、方法や技術ではなく態度なのだ・・・。もちろんその態度のなかには、合理的に学習可能な技術も含まれている。だが単なる学習や訓練だけでは身につかないdisciplinedとしか言いようのない要素が対話のなかにはたしかにある。」

 「対話とは、他者との異なった価値観の摺りあわせだ。そしてその摺りあわせの過程で、自分の当初の価値観が変わっていくことを潔しとすること、あるいはさらにその変化を喜びにさえ感じることが対話の基本的な態度である。・・・重要なことは、・・・・きちんとして価値観を・・・提示するという点だ。・・しかしその価値観は、・・・対話の過程で常に変更可能な、柔軟性を持ったものでなくてはならない。」と書いています。(『対話のレッスン』小学館 2001)

 

 私は「誰かに本気で興味をもったら、人は自動的にコミュニケーション能力がアップする。それがどんなに辿々しい言葉でも、思いは確実に伝わる。」という雨宮処凛さんの言葉を伝えることのほうが、コミュニケーション教育の本質にずっと近いと思っています。(『仔猫の肉球』小学館2015)

 そして「他者への興味は愛に根ざし、愛が湧かない対象には興味も生まれない」のです。(福岡大学小児科 廣瀬伸一名誉教授『チャイルド ヘルス』Vol 19.9 2016.9)

 

 一人一人の患者さんに「本気で興味を持つことなどできない(暇がない、その気がない)」「愛など湧かせていられない」と医者は言うかもしれません。でも、そのような人は、会話分析の結果/助言に耳を貸すこともないでしょう。

 

1)ポライトネスについては

滝浦真人『ボライトネス入門』研究社2008

滝浦真人『日本の敬語論』大修館書店2010

笹川洋子『日本語のポライトネス再考』春風社2016

滝浦真人『新しい言語学』NHK2018

語用論については

今井邦彦『語用論への招待』大修館書店2001

瀬名秀明『境界知のダイナミズム』岩波書店2006

中山康雄『言葉と心』 勁草書房 2007

内田聖二『ことばを読む、心を読む』開拓社2013

籾山洋介『日本語研究のための認知言語学』研究社2014

小山哲春他『認知語用論』くろしお出版2016

今井邦彦・岡田聡宏・井門亮・松崎由貴『語用論のすべて 生成文法・認知言語学との関連も含めて』開拓社2021

などを参考にしました。