本田美和子さんは「「広い面積で、ゆっり、優しく」触れること、これがユマニチュードの『触れる』技術の核心です」と書いています(『ユマニチュード入門』医学書院2014)

 

以下は、〈2022.5.27~28「「ふれる」ということ」〉に書いたことの一部です(少し加筆)。

 

 人間の五感の中で視覚と聴覚とは高級感覚とされますが、それは「対象から距離を置いている」感覚でもあります(鷲田清一『メルロ=ポンティ 可逆性』講談社19971))。視覚は、見る者-見られる者の接触不可能性を基礎にしています。低級感覚とされる触覚・味覚・嗅覚のほうが相手との距離は近く、それだけにそこで感じられる内容は主観的で曖昧なものですが、逆に強く私たちの心を支えています。

 

 「神の舌をもつ男」というテレビドラマがありましたが、味覚は最も基礎に位置する感覚だと言われます。とはいえ、人間を相手にする場合、味覚と嗅覚は近づきすぎだという気がします(少し変態っぽい?)。その意味で、触覚は適度な距離であり、特別な感覚です2)3)

 

 「ふれる」(触覚)ことは、人間にとって根源的な感覚です。触覚の根源性について、アリストテレスは「感覚のうち第一のものとしてすべての動物にそなわる」ものであり「対象そのものにじかに接触することで成り立つ」と書いています(『心とは何か』講談社学術文庫1999)

 

 D.J.リンデンは『触れることの科学 なぜ感じるのか どう感じるのか』(河出書房新社 岩坂彰訳 2016)で、比喩としての触覚的表現についての例を挙げています。

Touched(触られた)  感動した 傷ついた

              Sticky(べとべとした)  厄介な

              Coarse(ざらざら きめの粗い)  いい加減な  きつい

              Hairy(毛深い)  難しい

              Hard(硬い)   手ごわい

              Smooth(滑らかな)  円滑な

 「頭が固い・柔らかい」「心が温かい・冷たい」。心も触覚でたとえられます。(「考えが甘い・渋い」のように味覚が用いられることもあります。)

 

 もし五感のなかで一つだけしかケアに使えないとしたら、それは触覚=相手に「ふれる」4)ということではないでしょうか。聴くことがだいじと言っても、ただ聴かれるだけではケアしてもらっているとは思いにくいでしょう。

 

 そばで黙って手を握り続けていてくれる人、ずっと体をさすってくれる人、手をあて続けてくれる人、そのような営為がケアの基本です5)。医者は、いつも「さわる」ばかりです。身体にふれなければ、心にふれることも難しいと思います。(先天性知覚障害の人がいますが、その人にはケアができないと言っているわけではありません。)

 

 今年も研修医に「患者さんを「さわる」のではなく、患者さんに「ふれて」ください」とお話ししました。

 

1)「正常者にあっては触覚的所与は視覚的所与と共存しているためにそれ自体が深い変容を蒙り、その結果、抽象的運動の土台として働くこともできるのだ・・・・。」

「触覚的経験と視覚的経験とが存在しているのではなくて、一つの総体的な経験が存在しているのであり・・・

〈視覚的所与〉はただその触覚的意味を通じてのみあらわれるし、触覚的所与はただその視覚的意味をつうしでのみあらわれる。・・・私の手の〈触覚的諸感覚〉を結合し、さらにそれらを同じ手の視覚的近くにも身体の他の部門の知覚にも結びつけるものは、私の手の所作の或るスタイルであり、これはこれでまた私の指の運動の或るスタイルを指示し、他方では私の身体の或る姿勢にも寄与するのである。」メルロ=ポンティ『知覚の現象学』みすず書房1967

 

2)「視覚はいつまでも触覚の代償でしかない。」野村雅一『身振りとしぐさの人類学―身体がしめす社会の記憶―』中公新書1996

 

3)バークリは、「視覚新論」において、我々の真の世界は触覚的世界であって、視覚は光と色の多様でしかなく、その知覚は触覚的世界の記号に過ぎないと論じた」船木亨『いかにして個となるべきか? 群衆・身体・倫理』勁草書房2023

 

4)坂部恵は、五感の中で「ふれる」と他の感覚(見る、聞く、嗅ぐ、味わう)の違いについて次のような点を挙げています。(『「ふれる」ことの哲学—人称的世界とその根底』岩波書店1983)

①「ふれる」以外の四感は「を」(「音を聞く」のように)が続くが、「ふれる」は「に」が続く。つまり、「ふれる」は相手を対象化しえず、「ふれるもの」と「ふれられるもの」との間には相互嵌入、転位、交叉が生まれる。

②他の四感では「分ける」という言葉を付けることが可能である。聞き分けるには、しばしば支配-被支配の関係が含意される。

③見る、聞く、では「知る」という言葉を付けることが可能である。知るものと知られるものとの間には支配的関係がある。

 

5)「人間、手を握ってもらっているだけでも、強くなれる」(NHKガイロク「人生のピンチ」)。触れ合う時、双方にオキシトシンが出るのだそうです(NHKヒューマニエンス “皮膚” 0番目の脳)。