最近ある政党が、高齢者医療についての政策を発表しました。

 

・「高齢者窓口負担3割に。〈←受診抑制効果もあると説明していました。「年寄りは受診しすぎないように、そのほうがQOLが上がる」とも〉

・高額医療制度見直し(現行の高額療養費制度における 70 歳以上の月額の医療費負担上限額の見直しを行い、個々の経済状況に応じた負担上限額の設定を再検討。高額療養費制度の利用条件や範囲の見直し。)

・低所得者等医療費還付制度の創設(低所得者・生活困窮者等への負担増に対して、医療費還付制度「低所得者等医療費還 付制度」により還付による負担軽減を実現しつつ、生活保護受給者にも一定の自己負担額を導入することで、医療利用の適正化を促進。)〈←いったん支払うだけの手持ちがない人の場合はどうするのでしょう。〉

・後期高齢者向け診療報酬見直し(高齢者及びその家族が終末期の医療に関して意思決定を行う過程をサポートし、その意思が尊重されるような体制の構築。)〈←ACPを念頭においているようです。〉

・慢性疾患の治療に関する診療報酬体系を包括化

・終末期医療見直し(リビングウィル(事前指示書)を全国医療情報プラットフォームに組み込むとともに、人生会議の法制化=尊厳死法の制定) 〈←ACP、終末期相談支援料再導入にも言及しています。〉

・健康ゴールド免許制度(仮称)の創設〈←病気-健康を個人の責任に押し付けるものです。2023.4.23「棄民の時代」にも書きました。〉

 

 若い人の負担を減らすための政策なのだそうですが、このような表現自体が国民の間に分断をもたらすのではないでしょうか。

 全文を読みましたが、政策にしても医療システムにしても、すでに行われつつあることや、どこかで誰かが言っている「医療費削減」の方策を寄せ集めたように感じました。ただ、その中でACPや人生会議の法制化=尊厳死法の制定については、歩を進めています。高齢者医療費の抑制と「尊厳死」(安楽死につながりそう)とが結びつけられて意気揚々と語られるところまで来てしまいました。

 

 ここで言われていることは「高齢者の切り捨て」です。「手持ちがない」ために受診抑制する人が、そのために重症化したら制限された医療費の枠内で治療され、経過が悪ければ「尊厳死」が勧められるということです。

 

 でも現実には、コネ・知識・頼れる親しい人・お金(経済資本・文化資本・社会関係資本)といったものを持っている人は切り捨てられにくいのです(政治家やお金持ちは「あたりまえのように」切り捨てられないほうに回ります)。それらが乏しければ乏しいほど、切り捨てられることを諦めて受け入れなければならなくなります。すでに高 齢者の間で優先順位がつけられる「いのちの選別」が現に行われつつあり、自ら進んで医療を「辞退」することが「あたりまえ」のこととして(あるいは「美談」として)迫ってきつつあります。

 切り捨てる実行者は、医者です(政治家は直接手を下しません)。

 

 以前、国会議員選挙に出ようとした人の言葉。

 「高齢者を長生きさせるのかっていうのは、我々真剣に考える必要があると思いますよ。介護の分野でも医療の分野でも、これだけ人口の比率がおかしくなってる状況の中で、特に上の方の世代があまりに多くなってる状況で、高齢者を・・・死なせちゃいけないと、長生きさせなきゃいけないっていう、そういう政策を取ってると、これ多くのお金の話じゃなくて、もちろん医療費とか介護料って金はすごくかかるんでしょうけど、これは若者たちの時間の使い方の問題になってきます」「生命選別しないと駄目だと思いますよ、はっきり言いますけど。その選択が政治なんですよ」「だからそういったことも含めて、順番として、その選択するんであれば、もちろん、高齢の方から逝ってもらうしかないです」。

 この人はこの発言のため出馬できなくなりましたが、同じ意味のことを「もっもらしい」文章に変えて公党が堂々と口にするようになったのです。

 

 この政策は、ACPの向かっていた方向と同じです。もともとACPはそのような下心を「衣の下の鎧」として、ケアであるかのように取り繕っているのですから、むしろ順当な接合です(なにごとも使い方しだいなのですから、ACPにもケアに役立つ面があるとは思っていますが)。(ACPについては〈2022.4.13~5.17〉に書きました)。

 

 高齢者への医療手控え(「75歳以上にはがん治療を行わない」「高齢者には救急医療を行わない」など)を公的・公立病院の医師が公言しています。私も後期高齢者ですから「手控えられ」「切り捨てられる」側ですが、この対象はいくらでも広げられます。

 

 手控えの範囲が、まずは障害者、「不治の病い」の人、年齢に関係なく「死を望む」人、他国籍者、「自業自得の人」、犯罪者、・・・・そのうち国の方針に反対しただけの人も、と広げられていくことへの歯止めは作りようありません。誰でも重い病気になりうるのですから、誰でもいつ切捨てられるかわかりません。患者さんは、そのような医療―医療者を信頼できるでしょうか1)。(〈2023.4.19「嫌患者」への道〉〈2023.4.20「集団自決を勧められました」〉にも書きました。)

 

 人民を睥睨する「大局的」な視野を持つことを政治だと「勘違い」する人はいつもいます。

 でも、「政治とは、明日枯れる花にも水をやることだ」2)と言った総理大臣もいるのです(大平正芳元首相/クリスチャンでした)。医療もその「水」の一部です。人を切り捨てる政治が「幸せな社会」を作ることはできるのでしょうか。それはディストピアです。

 

1)フランスのマクロン大統領は、「自身で死を決断できる能力があり、短期・中期的に死の恐れがある重病に冒され、苦痛を和らげることができない成人終末期患者」に厳格な条件の下で致死量の薬の投与を認める「死への積極的援助」を導入する法案を発表したとのことです。自身で薬を投与できない場合は医師ら第三者の助けを得ることもできるとのこと。こういうのも都合よく「利用」されるのだろうなあ。あらためて、児玉真美『安楽死が 合法の国で 起こっていること』(ちくま新書2023)を読み返したい。

 

2)「私は安楽死や尊厳死には批判的です。生きる方向ではなく、死ぬ方向へ背中を押しているからです。そこにあるのは「悪い生」のかわりに「よい死」をという考え方です。・・・「悪い生」の反対は、「よい生」であるべきです」(大阪大学人間科学部教授・渥美公秀さん 朝日新聞 耕論2024.3.7)という言葉が届かない医療者や政治家がいるのが怖い。