小澤征爾さんが亡くなりました。この20年、近くに住んでいるのですが出会わずじまいでした(家の前を通ったことはあります)。

 『ボクの音楽武者修行』(音楽之友社1962年)は、中学生のころ読みました(おおば比呂司さんの挿絵が楽しかった)。

 1989年ボストン交響楽団と来日した時に、東京文化会館でマーラーの2番交響曲を聞きました。演奏終了後のカーテンコールは続き、団員が引き上げた後も何度も小澤さんは舞台に出てきました。その時の笑顔は忘れられない。

 

 小澤さんは旧満州国の生まれで、訪中して1978年中国中央楽団を指揮した時、「お詫びの旅」と言ったのですが、その言葉を非難する人たちがいることには驚きました。現に生きてきた人の思いをないがしろにして論う人がいることには悲しくなりました。

 この時のドキュメント=NHK「小澤征爾 悲願のタクト〜北京に流れたブラームス〜」を見て(初回放送の時です、2月16日の再放送も見ました)、それ以来ブラームス の交響曲2番がとても好きになりました。

 

 息子の征悦さんによると、小澤さんは「人は、個が大事だ。その人の個性が、人を動かす」といつも言っていたそうです。

 自民党が2012年に作った憲法改定草案では、現憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」が「全て国民は、人として尊重される」と変えられています。これは大差ない変更でしょうか。

 

 この草案では「基本的人権」という言葉はできるだけ減らされ、隅っこに追いやられています。どうしてそんなに基本的人権が「目の敵」にしなければならないのでしょうか(「国民主権、基本的人権、平和主義(中略)この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならない」と言った自民党の国会議員(元法務大臣)さえいました)。

 

 「個人主義を、自分の利害のみに拘泥する「自己中心」と捉えてのことでしょうか(自民党の政治家がその代表のような気がしますが)。でも、「個人主義」は自分と他の人を同じように一人の個人として尊重するもの1)であって、「自己中心」とはベクトルが正反対です(〈2023.4.26「教育の力?」にも書きました〉)。

 「個人」を「人」に置き換えるような憲法の変更は「改悪」なのだと、小沢さんが言っているように感じました。

 

 患者さんは「人として尊重」され、同時に「個人として尊重」されなければならないのだと思います。人としての尊重は正義(普遍性)の倫理の立場、個人としての尊重はケアの倫理の立場と言えそうです。

 

 キャロル・ギリガン2)は「正義のパースペクティブから理解されるケア」と「ケアのパースペクティブから理解される正義」とが存在することを示していると、岡野八代さんは指摘しています。(『ケアの倫理―フェミニズムの政治思想』岩波新書2024)。

 

 “病い”は、自分の生の終焉に近づく最も個的な出来事なのですから、医療/ケアは「個人としての尊重(思い/願いの尊重)」にこそ軸足を置くべきだと思います。

 「個人」を「人」に置き換えようとすることには、この国がケアを大切にする国からますます遠ざかりつつあることが巧まずして表れているのだと思います。

 

1)「私たちは簡単に自分を捨ててしまってはいけないのだ。自分自身に固執しなければいけないし、また固執している他人を尊重しなければならないのである。これは個人主義だが、しかしこの個人主義は生活の上で自分の生活圏に他人を立ち入らせず、自分もまた他人の個人生活と一定の距離を置くという意味の個人主義とは違う。」「人間はひとりひとり違うのであり、各人の好みや判断を大切にしなければならないという私の気持ちは、例外者の意識から出発している。私自身の感覚や思想が多くの人に共有されるのが当然だという意識ははじめからなかった。しかし、多くの人が感じたり考えたりするところに私が一致させなければならないとも考えない。」渡辺一衛「幾何学の精神と例外者の意識」『思想の科学』128 1972.3所収

個人というのは「神に対してひとりでいる人間、また、社会に対して、窮極的な単位としてひとりでいる人間、というような思想とともに口にされてきた」柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書1982

「真の個人主義は真の利他主義である。自己を拡大する時、彼は他人を拡大しつつあるのである。」柳宗悦『宗教とその真理』(若松英輔「美と奉仕と利他」『利他とは何か』集英社新書2021 からの孫引き)

 

2) キャロル・ギリガン

『もうひとつの声:男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ』川島書店1986

『もうひとつの声で:心理学の理論とケアの倫理』風行社2022