週刊医学界新聞2022.11.7では「踊り場に立つACP、いま何が求められるのか」という特集が組まれていました。

 「ACP はやっても無益,むしろ ACP などに時間を割かず,今起きている問題に関するコミュニケーションに注力すべきという意見がアメリカで出された(JAMA=Journal of American Medical Association)ことに端を発して特集が組まれたとのことでした。

 ACPの「効果」についてのRCT(Randomized Controlled Trial)でも、差がなかったという報告も少なくないようです(このようなことについてRCTを行うこと自体がとても限界のあることだし、そこには「傲慢さ」があるようにも思いますが)。

 

 その医学界新聞で、国立長寿医療研究センターの西川満則さんは、現在の問題点として

・ACPの実践者に本人が含まれているのに、本人の意思が反映されない現状があること、

・家族らに「代弁者」としての役割が期待されるが、代弁者に「代理決定」を強いる傾向にあること、

・医療・ケア従事者の中に生活支援職が入っていないこと

などを指摘しています。

 そのうえで「意思決定能力の低下した人の思いをくみ、代弁者に意思決定を強いず、人生や生活の中の想いのかけらをキャッチしつなぐ心構え――これらの基本が重要である。・・・・エンド・オブ・ライフの質が ACP で向上するわけではないという見方もあるだろう。確かに,ACP ごときで最期に人生を全うできたような気持ちにはなれないと個人的には思う・・・」と書いています。(抜粋)

 

 また、オレンジホームケアクリニックの紅谷浩之さんは

 「ACPは医療選択に違いないが、それには人生や生活の中にちりばめられた想いのかけらが影響する。・・・住まいには患者の生活があり、人生がある。座り慣れた椅子があり,愛犬がいて、家族写真,趣味の陶芸が飾られている。そこで語られる「これからの人生」についての想いや覚悟は、病院で語られるものとは・・・根本的な違いがある・・・・・・病院での語りのみでは見逃されることが多いのではないだろうか」と書き、問題点として

・現場では,介護従事者が ACPにかかわるシーンが少ないこと

・親しい友人が近所にいるにもかかわらず、話し合いや決定の場面では、遠方に住む親戚の判断に重心を置きすぎなこと

・多職種で現場の取り組みを共有し合う時間や機会が地域で不十分なこと

などを挙げています。

「地域市民が「わがごと」として話題にできるように発信したり、そのような話ができる場や方法を模索する必要がある」と続けています。(抜粋)

 

 良い医療をめざしたいと心底の善意からACPを推進しようと努力している人たちがいっぱいいると思います(経済的功利性から言っている人もいっぱいいる/二者択一ではありませんが)。でも、善意は「地獄への道の敷石」にもなりうるのです1)2)

 少なくともこの国では、ACPには患者に生きることを断念させ、周囲の支えに恵まれていない患者を切り捨てることに「役立っている」側面があります。医療者が最後まで「周囲の支え」になるつもりでACPを進めているとも思えません(「支える」と思うこと自体僭越ですが)。

 

 何よりも、自分のこれからの人生について「話し合える」医療者とシステムとして出会えなくなってしまっている現状があります(2024.1.22~1.29〈コミュニケーションの足元が揺らいでいる〉にも書きました)。医学界新聞の座談会でも、そのことは指摘されていました。

 

 インフォームド・コンセントが同意書のやりとりに限局され、DNAR(Do Not Attempt Resuscitation)が終末期の治療行為の回避に歪められてしまったように、ACPも医療者が「楽」をするためのものになりかねません。医療者の「楽」と、患者さんの「楽しい」とは交換不能であることのほうが多いのです3)

 

 ACPが今一つ「広まらない」としたら、その齟齬があるからではないでしょうか。「広まらない」ことこそ、普通に暮らす人々の「健全さ」の証だと思います4)。医療者が患者さんとの関りを問い続け、深めていかない限り、ACPという鋏はどのように使っても患者さんの人生を切り刻むことしかできないと思います。

 

1)「教育になにが可能か」という問いは、おのれの加害性を十分に踏まえて発せられぬかぎり、たやすく風化する」村田栄一『じゃんけん党教育論』社会評論社1980

 

2)「人間は、天使でも、獣でもない。そして、不幸なことには、天使の真似をしようとおもうと、獣になってしまう。」パスカル『パンセ』中央公論社1978

 

3)「自己の生命に対する防衛的配慮が一切必要なくなったときにこそ、ひとはもっとも自由になる。もはやあらゆる虚飾は不要となり、現世で生きていくための功利的な配慮もいらなくなる。自分の本当にしたいこと、ほんとうにしなければならないと思うことだけすればいい。そのときにこそひとはなんの気がねもなく、その「生きた挙動」へ向かう。そのなかからはおどろくほど純粋なよろこびが湧きあがりうる。」神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房1966

 

4)「われわれの生きることを支える思想は、ぼんやりしている。それは精密に定義できるものではない。ぼんやりしててダメだといったら、生きてる思想はダメだ、ということなんだ。」鶴見俊輔『対話』太郎次郎社1984