1月は、あっという間に過ぎてしまいました。昔から、1月~3月は早く過ぎると言われていますが、元日から地震が起こり、2日に飛行機事故が続き、気鬱なままどんどん日が過ぎてしまいました。家でテレビを見ていることに申し訳ない気持ちで、救護に入る医療者たちを見ていました。

 

 2014年3月に、全国自治体病院協議会石川県支部から講演に招いていただきました。“のと里山空港”の会議室で、能登地域の公立病院の方々にお話ししたのですが、その時の参加者の所属されていた病院名が次々に報道されて、身につまされる思いがしました。(ちなみに、私はいつも通り鉄道とバスで空港まで行った。)

 一日も早く日常が戻りますように。

 

 政治資金の裏金問題で、テレビで政治家の顔を見ることが多い昨今です。こんな言い方はどうかとも思いますが、政治家の顔に「品位」を感じられない(「下品」な感じがしてしまう)のはどうしてなのでしょうか。

 初当選の頃にはもっと穏やかな顔をしているので、「権力」を持っている(と勘違いする)ことによる傲慢さが(あと、お金も、他人を責める“言い合い”も)、人間の顔を「下品」にしてしまうようです。医者にも同じような人が少なくありません(自分自身のことを棚に上げて書いています)。

 

 社会学者のE.ゴフマンは、儀礼行為は「敬意表現」と「品行」からなると言っています。面子(facework/対面保持/自分の面子を保ちつつ、相手の面子も守るための行動1))と謙遜が品行を保障します。心からの謙遜がないとき、それは文字通りfaceworkとして正直に表われるのだと思います(ゴフマンの言っていることを「都合よく」引用しています)。

 

 「自民党の支持率が落ちているのに野党の支持率も上がらない」という新聞記事を見ましたが、むしろ当たり前のように感じました。政治家全体、そして政治そのものへの信頼が失われているのです。それは民主主義の危機です(独裁的政治はそんなときに生まれます、すでに生まれつつあるのかも)。

 

 以前、テレビで「選挙が民主主義を行使できる唯一の機会だから」と言う人がいて驚きました。選挙は一つの機会ではありますが、民主主義は普段の暮らしの中で生かし、育てていくものだと思います。そのようにし続けていかない限り、民主主義は衰退します。

 医療でも、日々の実践の中でふつうに生きている人間(患者)の視点からそれをとらえ返し、患者さんと一緒にその中身を軌道修正/作り替えていくとき、そこに民主主義が生きるのだと思います2)。面倒くさがったり、医者が主導するものと考えたりしている限り、医療もまたこの国の民主主義を衰退させていくのです。

 

 昨年9月、副大臣や政務官の全員が男性の集合写真を見て、その“異様さ”に気持ち悪くなってしまいました。せめて15%(現在の国会議員の男女比率)は女性にすることはできないのでしょうか。「女性には適材がいない」と言うのでしょうか。どうして女性議員たちは怒らないのでしょう(男性論理を内面化している人たちが生き残っている?)。

 私はかねがね、これまでは政治の舞台に立ったことのないような女性議員が政党の先頭に立たない限り、この国の政治に未来は無いと思っています(希望的観測に過ぎませんが)。

 

 政治の世界に限らず、女性は「女性ならではの感性や共感力を発揮(岸田首相)」することを求められたり、「男勝り」とか「家庭と両立している」といった言葉で称賛されたりしがちです。「女性ならではの感性や共感力」と言って良いのは、その感性や共感力/論理で男性論理に支配されたこの社会を溶解させ、作り替えてほしいと言う時だけです。

 

 医学/医療の世界もいまだに男性中心の発想の人たちがたくさん居て、旧態依然としているところがありますが、それでも女性の医学部進学者が増えるにつれて変わりつつあります。医療を作り変えていく原動力は、患者さんと看護師(女性のほうがずっと多いので)だと私はずっと思ってきました。権力を持っている人間が、その世界の変革の担い手になれるはずがありません。政治の世界も、まずは女性議員が増加することで変わってくるのではないでしょうか。

 

 ガラスの天井を破ることができるのは女性だけですが、男性がそれを手伝うことはできます(最低限、邪魔をしない)。女性を覆うガラスの天井が破られるとき、男性も自分が囚われているガラスの檻を破ることができるのだと思います。

 

1)「ゴフマンのフェイスとは、その都度の出会いの中で、様々な社会的属性を尺度として自己と他者が相互に承認しあう、お互いの積極的な自己像のことである」(片桐政隆)

 

2)「もっとも一般的な意味において、ケアは人類的な活動であり、わたしたちがこの世界で、できるかぎり善く生きるために、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる」

「民主主義は、人びとがより人間らしく、よりケアに満ちた生活を送ろうとするのを支援するためのシステムなのだ・・・」

「わたしたちがケアを、現在の周辺的な位置づけから、人間生活の中心の周りにその場を動かすならば、この世界は違って見えてくるだろう」

「わたしたち自身が、ケアに満ちた、そしてじっさいに民主主義の名に恥じないよう、あらゆる人びとのニーズをケアする民主主義を見いだし、実践していくしかない・・・」

「ケアする民主主義の出発点は、これまでの民主主義論が前提としてきた人間観を変革し、つねにすでに依存関係に巻き込まれ、他者に依存するがゆえに傷つきやすく、だれもがケアの受け手となり、誰かがケアを提供しなければならない、わたしたちの現実である。・・・誰もがケアを受け取るものであるという点で平等なのだ」

以上、ジョアン・C・トロント/岡野八代『ケアするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』白澤社2020