1月22日の記事で「一方で手術の経過が順調にいくと、その患者さんは病院から離れてかかりつけ医のもとに帰って行かれます」という外科医の文章を紹介しました。外科に限らず、急性期病院での診療は必要ないと医師が判断する場合、以後のフォローは地域の開業医に委ねられます(否応なく)。どうしても、当初の病院にかかりたいと患者さんが思う場合には、再診時選定療養費1)が必要になります(再診ごとに1万円程度かかる病院も少なくない)。

 

 病院の医者は、地域の開業医への「逆紹介」をするように迫られます。地域の医療機関から紹介されてくる紹介率、地域の医療機関に「お返し」する逆紹介率が基準値以上であることが、地域医療支援病院の承認基準になります(病院の「収入」が変わります)。

 

 こうして、入院患者さんが退院すると、その姿は病院の医者の目から見えなくなってしまいます。家に帰ってどのような生活をしているのか、どんな困難が生じるものなのか。医者の出した薬が上手く呑めない/いやになって止めた2)、と言うような情報も入りません。

 

 医者の退院時指導が現実離れしていた場合の反省をする契機も失われます。私たち古い医者は、がいらでも続けて患者さんを診ることで退院後の情報を知り、次の患者さんへの退院後の生活についての説明を軌道修正してきました。少し先回りして「こんなことがあるかもしれませんが・・・」「このようにすることが難しい場合には・・・」など言うこともありました。

 

 そのような機会が少なくなってしまうと、「自分は糖尿病だが、食事療法などはしていない。医者は、どの医者も同じことしか言わない。自分の生活のことなんか何も知らないで、教科書通りのアドバイスしかしないから」(ずいぶん昔、テレビで邱永漢さん(作家/実業家)が言っていました)というようなことがおきかねないと思います。(この話は〈深い敬意を含むメッセージであれば 2022.11.15〉にも書きました。)

 

 地域の医師からそのようなフィードバックがされないことも少なくないでしょう。場合によっては、お互いに「不信」が生まれることもありえます。

 病院の医者のほうは、いつも同じ説明をよどみなく話すことができればそれを上手なコミュニケーションと勘違いして、満足してしまうかもしれません。患者さんの「行動変容(好きな言葉ではないと、これまでも書きましたが)」を見ることも難しくなりそうで、そこにコミュニケーションは生まれようがありません。

 

 大病院の医者が、患者さんの暮らしを見ようとしない、見ようとしても暮らしが見えないまま自分の領域を担当せざるをえないという現状は、意外と深刻なことだと思います。

 

 なによりも「お元気ですか」「順調ですね」から始まる楽しい会話の機会を奪われてしまうことが「寂しい」ではないですか。

 

1)選定療養費=医療機関の機能分担と相互連携を推進するため、初診時他の医療機関からの紹介状を持たずに、許可病床200床以上の地域医療支援病院を受診する場合(と希望による再診時に)医療費とは別に負担する費用

 

2)白血病の子どもの母親から、寛解後ずいぶんたってから「実は、この子が薬(維持薬)をずっと呑まないで机の引き出しに隠していたんです。先生に言えなくて・・・」と報告を受けたこともありました。本人は、その後「治癒」しました。