具合が悪い時だからこそ信頼できる医療者にそばに居てほしいのだけれど、患者さんには何度もそのような医者を探すという負荷が増えます。それだけの付き合いがなかなかできません。

 深い付き合いが一瞬で生まれることがあるのは確かですが、その場合でも、それが持続できなくなります。

 深い付き合いが生まれるためには、ある程度付き合いを熟成する時間が必要なことの方が多いと思いますが、その時間が無くなりつつあります。「働き方改革」で医者と話しあえる時間も少なくなってしまいます。

 

 「最初の治療をしてくれた医者に最後(最期)まで診てほしい」などと言うのは、ぜいたく/わがままとしてしか見てもらえません。そういう「きまり(政策)担っていますから」と迫られます。患者さんは我慢しながら、「お礼」を言って、転院していくことになります。

 

 家族や親しい人に頼ることができればよいのかもしれませんが(それだって「自助」を前提としている)、家族がいない人も、居ても信頼できない人もいます。そのような人は見棄てられかねません。

 家族がいても、家族に気を遣って、頼らないようにする人も少なくありません。「これ以上迷惑をかけたくない」と(ほんとうは「迷惑」をかけても自分の思いを通したいのに)。

 「甘えている」という言葉が、非難の言葉として、何処からか聞こえてくるような気がして、我慢し続けます。我慢し続けたばかりに、爆発することがあれば「問題患者」とされ、次の病院にもそう申し送られてしまいます。

 

 患者さんは「わがまま」と非難されることを避けようと「努力」します。児玉真美さんは「ある自治体のACP啓発イベントの講師は、ACPを「人生の最後にワガママをいう機会だ」と参加者に語りかけた」という事例を書いています(『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書2023)が、「わがまま」を言えるのは人生の最後でしかなく、それすらも実際に希望を言ってみると「わがまま」と言われそうです。

 

 患者さんの言動や希望について、「わがまま」という言葉を絶対に使わないようにすることではじめて開く扉があると思います。

 

 インフォームド・コンセントは、患者さんが「自分の未来に希望を見いだせるためのものだ(そうでなければ意味がない)」と私は思っています(〈「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」2022.4.7〉以来、繰り返し書いてきました)。

 希望は、信頼できるかどうかわからない人との対話からは生まれません。希望は、自分で探すものだけれど、そばに信頼できる医療者のいることが確認できなければ、その作業はとても難しくなります。

 インフォームド・コンセントを、医者の「薦める」治療を受け入れることだとか過不足なく記載された同意書類のことだと考えている限り、患者さんの思い/願いは見えません。

 

 病院を転々とする中で、そのつど話しあわれる(話し合わさせられる)ACPで、患者さんが自分の未来に希望を持てるとは思えません。未来を諦めさせるためにACPが用いられているのではと勘繰りたくなります。

 患者さんが求めているのは「自己決定できる」ことではなく、最後まで自分の希望/願いと(それがどんなに揺れ動いても、その揺れに合わせて)付き合ってくれる医療者がそばにいてくれることではないでしょうか。