最近、大きな病院では「医師の働き方改革」もあって、「入院患者さんの担当は複数の医者で行うことになるので、日によって担当医が変わることがある(ことを理解してほしいと、ある病院長が言っていました)」ようになりつつあります。

 

 「何人もの医者に手厚く診てもらっている」と感じる患者さんもいるでしょうか、どの医者からも(責任もって)「大切にしてもらっていない」と感じてしまう患者さんもいるのではないでしょうか。

 

 「チーム受け持ち制」と「在院期間の短縮」が、患者さんにとっては負担が増加する面があること、そして若い医者にとっては成長が妨げられる枷となりそうで、研修医たちにはそのことを伝える必要があると私は思っています。

 

 以下で書いているのは、〈「良い医者」が育ちにくくなるのでは?(3/11)2023.6.11〉や〈チーム主治医制とケア 2022.9.2〉で書いたことに少し加筆したものです。

 

 医者について言えば、チームで話し合うことで誤診や過剰・過少診療は間違いなく避けられます。「三人寄れば文殊の知恵」というメリットも小さくありません。でも、標準的な治療の枠組みを外してみる(少し治療を踏み込んでみよう、少し治療を控えてみよう)ことには「手間がかかり」、いつもうまく話し合えるとは限りません。治療が「中庸」(標準的治療)に落ち着くことは良いけれど、関り/ケアも「中庸」に留まってしまいかねません

 

 医師の価値観のすり合わせがいつでもできるわけではありませんから、患者さんの人生にどう関わるかについての思いはまとまらないこともあるでしょう。そんな時は、全員が承認できるレベルで「妥協」するしかなくなるかもしれません。それはしばしば最小律に支配されがちです。

 

 自分だけがチームの他の医者より突出して付き合おうとすれば、いろいろ気を遣わなければなりません1)。チームの医者たちの顔色を窺わなければなりません。時間をかけて患者さんと話し込むことが続けば、他の医師から睨まれそうです(直接「止められる」ことの方が多いかもしれません)。

 「足を引っ張り合う」わけではないにしても、「自分の足が先に出る」ことをそれぞれが他の人の足元を見ながら控えてしまうかもしれません。

 

 「もしも・・・「病」を雨に例えるなら、私は傘をさしかけてくれるだけでなく・・・ともに・・・濡れてほしいのです」(中村ユキの漫画の言葉 夏苅郁子『人は、人を浴びて人になる』ライフサイエンス出版2017から)。ケアは、ともに濡れることから始まると思いますが、傘をさしかけることがケアだと勘違いしている人は少なくありません(そう思うだけでもましですが)。

 

 患者さんがともに濡れてほしいと思うのはたいてい一人の医者なのですが、その「ともに濡れる一人」になろうと思う人がいても、医者どうしで顔を見合わせて意中を探り合い、「濡れようと思う」医者を(自分は濡れたくない)他の人が引き留めることがないとは言えないでしょう(いかにもありそう、「ともに濡れよう」などと思っている医者は多くはありませんから)。

 

 主たる担当医がある程度の裁量権を持ち、他のメンバーはそれをバックアップするという関係になれば良いのですが、担当医が若い場合や「上」の医師に若い人を見守る姿勢がない場合には、それも難しくなります。

 

 「チーム医療って、ある意味無責任になりますよね?それと、声の大きい人や積極策が優先される傾向になりやすい」と書いている医者がいました。

 チームそろって上の人の言うことに従って(逆らえず)「みんなで渡れば怖くない」とばかり「中庸」を超えてしまうという危険もあるということです。患者さんの意向や願いを「無視」することも、チームで意見が合えばやりやすくなります。

 

1)私はいつもそんなことをしていました。毎日のように母親と話し込むことはいつものことでした。白血病で入院中の子どもを旅行に連れていくことなど、きっとできなかったと思います(〈「7月がくるたびに」 2023.7.13~7.15〉に書きました)。