学生の時の実習や臨床に出て1、2年目の、患者さんとの戸惑いに満ちた手探りのつきあいだからこそ生まれてくるケアがあります。指導者がそこで若い人たちと一緒に戸惑い、一緒に迷い、一緒に悩むことが、心を通わせるコミュニケーションを育み、倫理的姿勢を育みます。

 

 どんどん「正しい」方法や答えを「与える」こと、その「至らないところ」を叱責することは、教育とは縁遠い。曖昧さ、答えの出ないことに耐える力 は、一緒に迷い一緒に耐えてくれる(ほんとうのところは、どうすべきかわかっていても)先輩・指導者がいることによってしか育たないと思います。待つこと、それも気長く待つことは、教育に関わる者の最低限の矜持です。

 

 茨木のり子さんの「汲む―Y・Yに―」という詩があります。(詩集『おんなのことば』童話屋1994)

 

大人になるというのは

すれっからしになるということだと

思い込んでいた少女の頃

立居振舞の美しい

発音の正確な

素敵な女の人と会いました

そのひとは私の背のびを見すかしたように

なにげない話に言いました

 

初々しさが大切なの

人に対しても世の中に対しても

人を人とも思わなくなったとき

堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを

隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

 

私はどきんとし

そして深く悟りました

 

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな

ぎこちない挨拶 醜く赤くなる

失語症 なめらかでないしぐさ

子どもの悪態にさえ傷ついてしまう

頼りない生牡蠣のような感受性

それらを鍛える必要は少しもなかったのだな

年老いても咲きたての薔薇 柔らかく

外にむかってひらかれるのこそ難しい

あらゆる仕事

すべてのいい仕事の核には

震える弱いアンテナが隠されている きっと・・・

わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました

たちかえり

今もときどきその意味を

ひっそり汲むことがあるのです

 

 私も「堕ちてゆくのを隠そうとしても 隠せなくなった医者」を何人も見ました(そもそも隠そうともしていない人もいるし、成長したと思っている人もいる)。その責任の大半は、本人よりも私たち先に生きた者にあります

 

 指導医養成講習会では「教育とは、学習者の行動に価値ある変化をもたらすプロセス」「学習者は学習によって、より望ましい状態、より高い状態に変化する」というスライドがしばしば示されます。

 でも、人には今がいちばん望ましい状態だという部分が、いつも必ずあるのだと思います。(医学)教育には学習者/研修者に「より望ましくない状態、より低い状態」=価値のない変化をもたらす可能性、若い人の「初々しさ」を消してしまうことを教育だと勘違いしてしまう可能性があります。それが「指導者」の後ろ姿で伝わってしまうことも少なくありません。そのことを自覚しない教育者/指導者は、それだけで危うい存在です。

 

 「今のその感覚/初々しさを無くさないでね」と言い続けられる存在でありたい1)。そのために、私自身の「堕ちている」部分をしっかり見つめたい。

 

1)「今の若い者は・・・がだめだ」「・・・ができない」なんて、“年寄り”から見れば当たり前のことです。そう言うことで年寄りの自己肯定感は満たされますが、それは若い人を力づける言葉ではありません。だからこそ絶対にそのような言い方はしないというかかわり方があるはずです。「指導する」「育ててやる」というところから抜け出さないと、コミュニケーション(に限らず)教育は「平べったい」(鶴見俊輔)ものにとどまらざるを得ないのです。