私が初めて「講演」をしたのは、1976年、当時の日本赤十字中央女子短期大学(現・日本赤十字看護大学)の1年生の演習に招いていただいた時でした。(〈2023.11.23〉でも書きました)。

 私の文章をもとに学生たちがディスカッションし、そこでの質問に私が答え、最後に少しまとめのお話しをしました。今思い返すと拙い講演だったと思います。

 

 自分でも「分からないこと」ばかりでしたし、学生たちにどのように話せばよいかも全然わかっていませんでした。学生たちの質問に必死の思いで答えていたことだけが、記憶に残っています。後にフローレンス・ナイチンゲール記章を受章された小林清子先生(当時、日本赤十字社幹部看護婦研修所の責任者)から授業後に優しい言葉をかけていただいたおかげで、なんとかホッとして帰ったことを覚えています。

 

 きっかけとなった文章は、私が初めて医療系の本(雑誌「看護教育」)に連載したものでした 1)。この連載を通して何人かの方から好意的なお手紙をいただき、長いお付き合いも生まれました 。

 数日後、演習に参加していた若い教員からお手紙をいただきました。授業前には、医師が看護の本に書くことへの違和感があったけれど、授業での学生の質問を「正面から受け止めて丁寧に答えている姿を見る」ことでその違和感が薄れたと書かれていました。

 きっと、私は質問に対して十分には答えられてはいなかったでしょう。今の私ならずっと「うまく」答えられるでしょうが、そのほうが彼女の違和感は消えなかったかもしれません。あのとき講義を聞いてくれた学生たちも、もう60歳を過ぎています。

                         

 癌研附属看護学校(今は廃校になっています)では1993年から10年以上講義したのですが、初めて講義した学年にはとても(異様なほど)「受けました」(それまでも医学部や看護短大などで講義はしていたのですが、こんな経験はしたことがありませんでした)。彼女たちも、アラフィフのはずです。

 

 ここ20年あまりは講演させていただく機会が多くなり、自分では今が一番まとまったお話ができると思っているのですが、コロナのおかげで講演依頼がほとんど無くなってしまいました(それに年齢も取ってしまいましたから)。でも、よどみないまとまった話は、心が届くことを妨げる壁にもなりうるような気がしています。

 

 拙い文章、しどろもどろの回答、滑らかではない(淀みのある)講演、はじめての講義だからこそ、伝わるものがあるのだと思います。看護学校での講義が2年目からはそれほど受けなくなってしまったのも、そのためだったかもしれません。

 

 医療者の患者さんへの説明もきっと同じです。上手な説明ができるようになることだけを、コミュニケーション教育の目標としてはいけないと思います。言いよどんだり、口ごもったり、いささかしどろもどろになる説明=「隙のある説明」が、患者さんの「息苦しさ」を和らげることがあるはずです(程度問題ですが)。

 

 その意味で、学生や研修医の医療面接演習でも、滑らかにできない人にこそ大きな可能性が秘められていると思います。それを否定的に評価したり矯めたりするだけでは、教育としては足らないのではないでしょうか。フィードバックでも、そのことを心がけたいと思っています。

 

1) 医者になってすぐのころ、「医療とは看護のことだ」という先輩医師の言葉にとても納得していた私は、キュア(と言われる医者の行う治療)はずっとケアの一部分でしかないと思っていましたので、看護の雑誌から原稿依頼をいただいた時は本当に嬉しかった。そういえば、武蔵野赤十字病院で、私は学生やスタッフたちの間で「日下婦長」とよく言われていたようです。