「さっき長女と並んで空を眺めながら「私が見ている夕焼けと長女ちゃんの見ている夕焼けの色が同じかどうかは誰にも確かめようがないんだよね」なんてことを話したら「もし違っても、きれいなのは一緒だよ」と言われました。そうして私が長いこと心の奥底で飼っていた孤独がまたひとつ成仏したのでした。」(あるツィッターから)

 

 大森壮蔵さんも、他者理解と言うことについてこんなことを言っていたような気がします1)。哲学者の考察と子どもの心が通じているように感じて、なんだかホッコリしました。

 

 「きれい」という思いと「さみしい」「辛い」「悔しい」という思いとは多少なりとも違うかもしれませんが、中身の具体的なことはわからないけれど「どんな思いでいるかは分かっているよ」という人がそばにいてくれること、「きれいだと思っていることは一緒だよ」「つらいことは一緒だよ(わかっているよ)」という人がそばにいてくれること、そこからケアが生まれるのだと思います。それは患者さんが黙っていても、明るくふるまっていても、同じです。〇〇学などと難しいことを言わなくてもよいような気がします。

 

 医者の教育では「患者理解」という言葉はほとんど聞かれません(看護の世界では耳にタコができるほど言われます)。

 Understand、verstehenは「理解」と訳されます。でも、その言葉が持っている「そばに立つ」「前に立つ」というお互いに歩み寄るイメージは、「理解」という日本語とは「ずれ」があると感じます2)。「理解」という言葉にはなんだか上から見下ろす印象があり、「分かる」とは違うように感じます。医者に「患者理解」などと教育しようとすると、ますます上から目線を育てるだけかもしれません。

 

 E. レヴィナスは、「他者は届きえない「無限」としてあらわれる」と言います(『全体性と無限』)。

 他者理解など「要らない」「邪魔だ」と思う医者もいるかもしれません3)

 「理解」されることを患者さんも求めていない(拒絶する)かもしれません。医者に下手に心の中を引っ掻き回されるくらいなら、「変なふうに」分かったつもりになられるくらいなら、「分からない」ままでいてくれるほうがましですから。「よく分かりますよ」「分かった、分かった」と言われて、片付けられてしまうことに絶望するよりはましです。

 「医者は分かってくれない」と嘆くことさえ「救い」になることもあるかもしれません。自分の辛さは簡単に他人に分かられるものではありませんし、その分かられないところに自分の“かけがえのなさ”を感じている時には。

 

 「患者理解」などと言わなくとも、人の気持ちに「思いを巡らす(想像する)」ことが医療に欠かせないということが医学教育で伝えられているでしょうか4)

 そのためには、病を得た人の心についてのある程度の「先入観」=知識(病者心理、病者行動、自我防衛など)を知ることが欠かせません。「どんな思いでいるか分かる」ことは認知的なことなのです。

 そして、私たちの関係が「分かりえない」ものだけれど、それでも/それだからこそそばに踏みとどまり続けることからしか患者さんとはつながりあえないという自覚が医療者には求められているのです。

 

 患者さんからボールが投げられてきたら、投げられていることに気付いてほしい。ボールを打ち返したりしなくて良いから(しないほうが良いから) 、逃げずにボールをしっかりと受け止めてほしい。ボールを受け止めて、そっと返すだけで(それ以上のことができなくとも)“救われる”人はきっといます。

 

1)「他我問題に訣別」(『時は流れず』青土社 1996所収)。哲学的にはそんな簡単なことではなさそうで、発表されて以来この文章についてたくさんの論考が書かれています。

 

2)以前の講演では、understand、つまり相手の下に立たないと(身を低くしないと)相手のことは分からないのだと話していたのですが、元の意味が違うとのことで止めてしまいました(ネタとしては良いと思うのですが)。

 

3)そのような姿勢が医学を進歩させてきたという側面もあります。

 

4)「家族の心身の不調に日常的に感応してきた私からすると、ケアとは「お世話をしてあげる/してもらう」などと言うことではなく、なによりもまず「他者の痛みを感じる」ということだと思えていた。他者の痛みや弱さを感じることで、その人の存在を自分のそばにありありと感じとる。それがケアの始まりなのだと。

    そして私は思う。・・・ケアの深いところにある感情は「ケアは与えているようで、与えられている」というものではないかと。」中村佑子(映像作家)「ケアを真ん中に  看病して子を育て 生産性中心の社会の スピードに戻れぬ私」朝日新聞2024.1.11