私たちの思考は、すでに手持ちの言葉(自分が生きている世界の言葉)によって行われるしかありません。思考が言葉に絡めとられているとも、言葉の檻を抜けられないとも言えます(そんなふうに言っている「偉い」人はいっぱいいます)。

 一つ一つの言葉には多様な意味がありますし、微妙なニュアンスの違いは無限にあります。でも、その枠を超えることはできません。

 

 日常の言葉では、語るほうも聞くほうもそのような微妙な違いをいちいち気にしていません。詩的な人ならば言葉の意味を飛翔させるかもしれませんが(その飛翔も檻の中でのことかもしれない)、市井に生きる人間はそんなことをしてはいられません。そんなことをしていたら、周囲の人と付き合えなくなってしまいます。

 

 人が言葉を発するとき(患者さんも医者も)、いくつかの「ありふれた」意味のうちの一つを付与しています。

 その場合でさえ、話し手と聞き手とがその言葉に付与する意味は、ずれていることが少なくありません。微妙なニュアンスはズレるかありませんし、たいてい視野に入りません。同じ言葉を用いているのに(用いているからこそ)、思いはずれていきます。

 

 人は、とりあえず手元にある(手の届く)ありあわせの言葉で、自分の思いを伝えるしかありません。そうした言葉を、K.クラウス(ドイツの哲学者)は「陳腐な常套句」と言います。陳腐な常套句のやり取りでも、日常は何とかやり過ごせることのほうがずっと多い。でも、人生の危機にある時、きっとその言葉だけでは足りません。

 

 人は(患者さんに限ることではありません)生きることの心底の思いを語ろうとすれば、常套句にからめとられながら「この言葉ではまだぴったりこない」と常に迷い続けるでしょう(この迷いをクラウスは「道徳的な贈り物」と言っているそうです)。どの言葉を探しても、「しっくりこない」という思いから免れることはできません。それで、人はしばしば語ることを断念します。「この程度に通じればいいや」と諦めます。

 それに「きっと通じないだろう」という思いには、その人を支える力があります。

 

 患者さんが迷いながら、やむをえず(違和感に包まれながら)「ありふれた」言葉を選び取るしかありません。「詩的な言葉」が通じるとは思えませんし、乱れる思いを縷々言うわけにはいきません。もともと人はそんなにたくさんの語彙を持っているわけでもありません。

 

 医者は、その逡巡に気づかぬまま「ありふれた」言葉をその意味通りに受け止めて「納得」してしまい、「陳腐な意味」で相手のことを分かったつもりになってしまいがちです1)

 相手の心の奥底まで覗き込めるはずもないのだから(覗き込むことは相手を傷つけることなのだから)、それだけでも良いのかもしれません。

 でも、そこに深淵が開いていることを忘れないようにすることは、患者さんを多様に見ることを、患者さんとの付き合いの深めることを、そして、自分の人生の意味を確認することを可能にしてくれると思います。

 

 「医者はそんなことまでしていられない」と言われるでしょうか。いや、そんなことさえしないで医者が出来ているとしたら、そのほうが問題なのだ。

 

1)看護や介護にあたる方々には、もっと深く受け止める人が少なくありません。きっと「言葉の本質が、意味の伝達という実用性にあるのではなく、自分の感情の気持ちの表現という別の側面にある・・・・」(加藤典洋『言葉の降る日』岩波書店2016)ということをケアしているうちに知ってしまうのでしょう。