あけましておめでとうございます。

 

 「おめでとう」という言葉を憚られるような年の初めになりました。地震や事故で被害にあわれた方にお見舞い申し上げます。

 

 昨年末も、ベートーベンの第九を聞きに行ってきました。

 昨年元日に次のように書きました。

 

「すべての人々は兄弟となる あなたの柔らかい翼がとどまる場所で」という歌詞に、戦火の中で苦しむ人たちのことを思い、心が震えました。

・・・・・・・

ウクライナのことがあって「歓喜の歌」で心が震えたのは事実です。

でも、2022年2月までも世界に戦火が途絶えた日はなく、

現に今もたくさんの人が戦禍に苦しんでいます。

第二次世界大戦の傷を抱えている人もまだいっぱいいます。

戦争はなくても、貧困や差別に苦しむ人がいっぱいいます。

政治的に迫害されている人もいっぱいいます。

・・・・・・・

今回のロシアのウクライナ侵攻まで、「歓喜の歌」をこだわりなく

聞いていた自分を心の中で責めました。

このところ、軍備増強ばかりが声高に語られるようになってしまいました1)。(以下略)

 

 この1年で、事態はさらに悪化してしまいました。ウクライナが解決するどころか、昨年はパレスチナの悲劇があからさまになりました。「そういったことを知らなかったわけでは全くないのに」、私は見ないようにしていたのかもしれません。

気候変動も、もう回復できないところにきているような気さえしてしまいます2)

 

 ジェノサイドをされた民族が、年を経て、ジェノサイドを行おうとしているという悲劇。

 年末に「文明と野蛮の戦い」3)だとイスラエルの首相が言うのを聞いて、暗澹とした気持ちになりました。このような対比への反省が20世紀にされてきたのではなかったのでしょうか(たとえばレヴィ=ストロース)。フランス革命のさなかに文明の野蛮化を嗅ぎとつた人がいたように、自らを文明と言っている人はすでに野蛮化しているのではないでしょうか。

 

 「私たちが対峙しているは怪物です」とも首相は言っていますが、「怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである」とニーチェの言うとおりです。

 

1)またしても沖縄を前線基地として(その犠牲を前提として)戦争の準備が進められています。閣議決定で、日本は武器輸出三原則など弊履の如く捨て去られようとしています。やっぱり今は「新たな戦前」なのでしょう。

 

2)「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。」(アラン『幸福論』岩波文庫1998)

 「みんなが生きていてよかったと思える世の中に変えていきたい。簡単には実現しないでしょう。でも、希望を持たないのは怠惰です。」(澤地久枝  朝日新聞朝刊 折々の言葉 2022.11.21から)

私はあきらめているわけではありません。

 

3)この「論理」が、何百年ものヨーロッパの植民地主義を支えてきました。アメリカでの白人移民による原住民の迫害、それに続く黒人差別も同じです。日本とアイヌ・沖縄との関係もそうだと思います。先の戦争ではアジア諸国との関係でも。

沖縄での反基地運動の際、座り込んだ住民を「土人」と蔑んだ(本土から来ていた)機動隊員がいました。当人は「土人という言葉に蔑む意味があることを知らなかった」と無理筋の弁解をしていたようですが、本当にそうだとしたら、そのような常識もない人間が警察官をしていることが問題です。そのような常識もない(ふりをしている)政治家はもっと問題です。医者と患者との関係でも、こんなふうに思っているのではないかと思わされるような医者がいることは悲しい。