もう一つ、児玉真美さんの文章から。

「地域包括ケアが言われ始めた頃に、病院の医師の一部から「地域の街路を病院の廊下にするぞ!」と張り切る声が聞こえてきた。・・・・地域の家庭を病院の病室扱いし、私たちの生活の場に急性期病院の価値観で踏み込んでくるのはカンベンしてほしい。」(『安楽死が合法の国で起こっていること』ちくま新書2023)

 

 「地域の街路を病院の廊下にする」というのは、社会の病院化です。イヴァン・イリッチが病院化社会について指摘したのはもう40年以上も前のことですが(『脱病院化社会-医療の限界』晶文社1979)、「いまだに」(いまだからこそ?)堂々とこのように(きっと“善意”から)宣言する人がいることに、この40年私(たち)は何をしてきたのだろうと、いささか落胆しました。

 

 「健康」「健全」という言葉は心身のことに限らず、政治・経済から暮らしの隅々にまで入り込み、社会を統制していきます。「健康」という言葉には逆らい難く、健康概念に人は押しつぶされそうです。(健康と元気については〈2023.5.16〉〈2023.6.4〉などにも書きました)。

 医療の価値観が社会の規範になります。健康は管理の道具であるのではなく、社会の仕組みそのものが「健康」という概念を基に組み立てられています。社会の問題が、しばしば医学的な比喩を用いて語られるのもその表れです。「健全な社会」「安心・安全な社会」「社会の癌」など。武力・経済力での管理は見えないところに後退し、健康を目指す自己管理によってこの社会が維持されることになります。M.フーコーの言う「生権力」です。

 

 「フーコーは・・・「権力のミクロな物理学」を考察・・する。その際に、この権力は三つの次元を通じて働きかけることになる。人間の身体を経由する権力、人間の生命を経由する権力、そして人間の精神を経由する権力である。これらの三つの権力は後に生の権力と呼ばれるものであり、この三つの次元はまた統治性の技術の次元でもある。」(中山元『フーコー 生権力と統治性』河出書房新社2010)  

 

 人が求めるのは、誰かから認定される「健康」ではなく、自分が実感する「元気」なのです。ずいぶん昔のことですが、「今日も元気だ、タバコがうまい」という広告がありました。タバコが体に悪いことは間違いがないと思いますが、「今日も健康だ」は人の実感にはなりません。(富永茂樹『健康論序説』河出書房新社1973については〈2023.6.4〉などで書きました。)

 

 コロナ対策でもそうですが、私たちの暮らしには健康のために「するほうが良いこと」「制約を受け入れるしかないこと」はあります(たとえばマスクをするなど)。でも、そのような制約があるにしても、「元気」を大切にしたい。その元気さは見た目にはかかわりがないことですし、他人が判断できることではありません。そうでないとPLAN75の世界が忍び寄ります。(PLAN75については、〈2022.10.26~10.29〉に書きました)。

 

 方向が逆なのだと思います。求められるのは「病院の廊下を地域の街路にする1)と考えることではないでしょうか。

 患者さんの暮らし、患者さんがこれまで生きてきた人生と断絶することのない「思い/願い」をもとに医療を作りかえていくこと。病院の論理に対して地域/暮らしの論理を対置し、暮らしの論理で医療の論理の組み換えを求めていくこと。そのような医療者の存在があってはじめて、「患者が医療の主人公」という言葉が生きるのだと思います。

 

1)何度かの病院建築で私が設計者から教えていただいたことは、病院の中にできるだけ“ふつうの”暮らしの世界/場面を取り入れることでした。レストラン、喫茶店、売店(コンビニ)、理美容室といった“街”、そこにいると少しだけでもホッとするような場を作ることの大切さでした。街を歩いていたら、いつの間にか「病院」の中に入ってしまい、そこで買い物や食事だけをして帰っていくような、そんな空間を夢見ながら、私は病院建築のお手伝いをしていました。