今は、入院したその日にACPやDNARについての「意向」が尋ねられる時代です。具合が悪いのに、しばしば突然の事態に戸惑っているのに、信頼関係も何もまだない初対面の人に答えなければならないのはおかしくはないでしょうか。

 初対面なのにこんなことを訊けてしまう無神経さ、「医療者はどんなことを尋ねてもよい」という傲慢さは、パターナリズムそのものです。

 

 「いやです」「話し(合い)たくない」「成り行きに任せます」と言ったら、医療者はどんな反応をするのでしょう。

 「あなたのためですよ」「あなた自身のことですよ」と言って、考えを改めるように「説得」する可能性が一番高い。「あなたのため」「患者のため」とさえ言えば許される(自分の正当性が主張できる)と医者や教師は思いがちです、親も。

 

 「それなら、今は話さなくて良いですよ」と言われることもあるかもしれません。許すも許さないも、主導権は医療者です。説得は繰り返されるでしょう。

「それもありですね」とセカンドチョイスのように言う人もいるかもしれません。

「その考えは素敵ですね」と言う人はいるでしょうか。「応援します」「お手伝いします」と言う人はいるでしょうか。

 

以下は〈2022.4.25「セルフパターナリズム」〉に書いたものの一部です。

 ACPについて、「将来の意思決定能力の低下に備えて、患者の意向を叶えるために話し合うプロセスの全体」と説明している文章に出会いました。

 

 「(今の自分より)意思決定能力が低下してしまった」未来の自分は頼りなげですし、今のうちに自分の願いを言っておかなければ医者からとんでもないことをされてしまうかもしれません。そのようになったら周囲の人から尊重されないかもしれないという懼れもあります。そうした思いが「今のうちに意志を明らかにしておこう」という気持ちを後押しします。

 でも、この説明には「意思決定能力が低下した状態の自分」は、「今の自分」より劣った存在であるという考えが根底にあります。そこには、一般論として「意思決定能力が低下した人」は、そうでない人より「劣った存在」であるという考えがあるはずです。こんなふうに「健常者優位の思想」は私たちの心に沁みこんできています

 

 「意思決定能力が低下した状態」を生きることになった人にとって、その状態が、その人にとってその時の人生なのだとは考えられないでしょうか。どのような状況であれ、人はいつも自分が置かれた状況を、なんとか生きていくしかありません。「意思決定能力が低下」したのなら、その状況の下でできる範囲のことをして生きていくのが人生だと思い定める姿勢がありうると思います。

 

 未来の「判断力が低下/消失した自分」のありようについて、その時よりは元気な/「意思決定能力がある」現在の自分が判断し選んでおくというのは、「患者はどうせ自分のことがよく分かっていないのだから、医療者に任せる方がよいのだ」というパターナリズムと同じです。ACPはセルフ・パターナリズム(この言葉自体は和製英語ではありません)を免れないのです。

 

 「人生なんて、いつもなるようにしかならないのだから」「その時のことは、その時にしか分からないのだから」、その時には、その時の自分の(低下した)思いと周囲の人の思いとで決めていくことにしよう=「だから、その時(のなりゆき)に任せます」という選択は、決しておかしなものではないと思います。

 

 現在だって「意思決定能力が低下していない」という保障はありませんし、十分な判断力を持っているとはかぎりません。ACPについての「話し合い」だって、自分の身体についての知識や「その時」についての知識は乏しいまま(あるいは楽観性バイアスに支えられた「都合よい」思い込みに支えられて)、周囲の人の意向に左右されながら(顔色をうかがいながら)選択していくことも少なくないのですから、あまり大差ないのではないでしょうか。

 

 どんなに詳しく丁寧に話されても、言葉は医療者のようにはわかりませんし、その時の状況は想像できません(それに、現実は想像/想定のようにはなりえません)。それなのに、いろいろな言葉に囲まれ、(「医療を控える方を選べ」という暗黙の圧力の下で)「話し合いをさせられる」ことは、「殿お覚悟を」と自害を勧められているようなものです。「自己決定」「自己責任」は呪縛でもあります。