言葉による名づけが、混沌とした思いを明確にするということはあります。

 マイクロアグレッション、トーンポリシング、マンスプレイニング、○○ハラスメント・・・・。でも、どうしていつも外来語なのでしょうか。その言葉に出会うまで、日本語では何も考えられていなかったのでしょうか。視力の問題なのか、姿勢のの問題なのか。

 

 一言で表わすことは、「埋もれている実践が見えるようになる」ことと同時に、「どう言えば良いのだろう」と迷い、行きつ戻りつしていた医者の混沌とした思いが捨て去られることでもあります。「すっきり」と相手を見ることができるようになったことで(それは上から目線かもしれない)、同時に、見えなくなったことがあり、大切な手触りを失ってしまうこともあり得ます1)

 

 病気の場合には、診断名が付くことで、バラバラだった症状が整理され、ひとまとめのものとして見えてきます。患者さんの方は、自分のせいではないかと思っていたことが、そうではないとわかって安心することも少なくありません。「名前が付くことで対処できるようになることってあると思うんですよ」(町田粥『発達障害なわたしたち』祥伝社2023)

 でも、病気の診断と、上で述べた「名づけ」とは少し違うような気がしています。

 

 「常日頃の本人の意思は無視しておいて、治療に関することだけ“意思決定支援”などと連呼するのだから不思議で仕方ない。」(伊東美緒「優しさを伝えるケア技法〈ユマニチュード〉の思想・実践・教育」医学哲学医学倫理41号2023)

 医療倫理で問われるのは「常日頃の本人の意思を尊重」することです。そこから出発しなければ、「意思決定支援」/「意思決定関与」/「欲望形成支援」とどのように名付けようと、患者さんとの距離が縮まるわけではありません。

 

 そして、「どのような選択をなさっても、できるだけのお手伝いをします」と言う人だけが味方です。ACPは、そこから出発しているでしょうか。

 

1)私が住んでいるマンションは世帯数が多く、広い地下駐車場があります。入居してしばらくの間、私は自分の駐車場の場所を「だいたいこのあたり」と思ってたどり着いていました(駐車すると、目の前に階段が見えるようになるので間違うことはありませんでした)。ある日、助手席の妻から「あの防火シャッターから3番目のところなのに、気づいていなかったの?」と言われ、以後迷うことはなくなりました。「分節化」ってこんなことかなと思ったりもしました。でも、その日以来、「あそこで良かったかな?」と逡巡するちょっとした「ドキドキ感」は消えてしまいました。