「共同意思決定」という言葉がしばしば用いられるようになりました。Shared Decision Makingの訳なのでしょうか。

 

 私の英語力が貧弱なためだと思うのですが、この訳語はなにか少しズレているような感じがしてしまいます。

 Shared という言葉に、私は「これからの人生を一緒に背負っていきますから、一緒に考えてみましょう」という意味合いに感じていました。それが「共同」ということにまとめられるのは、ちょっと違うという気がしています。

 

 Decision Makingを「意思決定」と訳すことが誤りではないと思いますが、「一緒に、手探りで、前に進んでみませんか」というような意味合いで私は受け止めています。こんな「固い」言葉とは手触りが違います。

 

 家族や医療者を「助演俳優」と書いている人もいますが、もっと群像劇のような気がしています。もちろん、医療者が主演など言うことはありえません(現在のACPなどは、その傾向が少なくない)。劇というよりは、暗い洞窟の中を、手を取り合って前に進む感じです。お互いに「弱い」「傷つきやすい」「依存しあう」関係。信頼がなければ手を取り合うことはできません。患者さんの思い/願いが少しだけ先の方を照らしてくれるのではないでしょうか。

 

 「意思決定支援」よりも「意思決定関与」と言いたいという人がいます(尾藤誠司 週刊医学界新聞2023.10.16「患者の意思決定にどう関わるか?」)

 でも、「支援」も「関与」も、どこか「よそよそしく」感じます。「意思決定」というような漢語(漢字の固まり)の言葉自体、患者さんには「圧力」として響くのではないでしょうか(平安時代から、漢字の固まり=熟語にはそのような力があります)。「支援」でも「関与」でも、この言葉に上から目線を患者さんが感じるということはないでしょうか。

 

 國分功一郎さんは、「『意思決定支援』という言葉に代えて、「欲望形成支援」という言葉をもってくることを提案しています。・・・・・・医療に携わる方々の前でこの言葉を出すと、「ああ、そういえばよかったのか」とか「そういう言葉が欲しかった」という感想を良くいただきます。僕としては言葉がないために埋もれてしまっている実践を掘り出して、見えるようにすることに、この概念が役に立てばよいと思って・・・」と言います。(國分功一郎/熊谷晋一郎『〈責任〉の生成―中動態と当事者研究』新曜社2020)

 

 それでもなお漢語であり、「支援」です。「支援」という言葉には、支援する人の優位性、支援する人が「しっかりした」態勢をとっている感じが滲んでいます(ここで引用した人たちは、もっと柔軟な意味で用いていると思いますが)。

 

 もともと医療とは、患者さんと手を取り合って、手探りで前に進むものであって、医学知識はその杖としての役割だったはずのものです。それをShared Decision Makingという言葉が黒船のようにやってきて、慌ててもっともらしい訳語を考えるからこのようになるのではないでしょうか(私が良い言葉を思いつけるわけではありませんが)。