「市民参画」ということが、医療についても語られています。

 

 「臨床・制度設計・研究・教育などの様々な営みにおいて、患者・市民参画の重要性が認識され、その実践が広がりつつある。患者・市民はヘルスケアの受け手であるだけでなく、医療費や保険料を支払うことで医療制度そのものを支えており、その意向は無視できない。また、保健医療福祉の従事者だけで考えていては気が付かなかったサービスの改善のためのアイディアを、患者・市民が自らの経験や知識、市民感覚に基づいて提案することもある。」(熊倉陽介「精神医療の官僚制と民主制・序説」現代思想49-2「精神医療の最前線」2021)

 

 「市民参画」という言葉には、市民にも「参加させてやる」という雰囲気があります。「患者が医療の主人公」なのですから「医療者にも参加させてやる」というのが本来の姿ではないでしょうか(民主主義というのは市民が中心なのです)。

 

 「患者の意向が無視できない」のは当たり前ですが、患者とは医療者の気づかないことを提案するだけの存在でしょうか。「患者の意向」が医療の出発点です。そこで、次のような文章が続きます。

 

 「共同創造とは、医療や福祉などのサービスを利用する人(患者・市民等)が、自身の利用するサービスの設計・規格や提供に対して、従来のサービス提供者と対等な立場でともに関わることを言う。サービス利用者とサービス提供者が、互いの存在を、サービスの向上のために重要なパートナーであるとみなしている関係性の中で、共同創造は可能となる。共同創造によって提供されるケアや関りは、・・・サービスを利用する人が望むものが反映されたサービスになっていくことに寄与する。・・・患者・市民は単に相談される存在ではなく、立案、設計、実施、サービス管理の一員となる。」

 

 「一員となることを認めてあげるよ」「対等だよ」というのも、上からの目線のように私は感じてしまいました。

 患者はただのサービス「利用者」ではありません。医療者は「互いの存在を、サービスの向上のために重要なパートナーである」と患者からみなされているでしょうか。そのように思ってもらえるために、私たちはどのようにしていけばよいのかということが問われています。

 

 本当につらい時に「共同創造」ってしんどくはないでしょうか。それは元気な人や少し落ち着いた時に任せて、とりあえずは一緒に「落ち着いた」(時には「楽しい」)時間を過ごすことができれば、そしてその中で患者さんの希望やこれからの方向について話し合えれば、それこそが共同作業ではないでしょうか。

 そこから何かが生まれてくるはずですし、それを感じ取ってシステム化を考えるのは、さしあたり肉体的苦痛の無い医療者の仕事かもしれません。

 

 ここまで書いてきて、精神科の課題が書かれているのに、身体疾患の患者さんと関わる立場から書いていることにやっと気づきました。けれども、このような「勘違い」をしたのは、どの臨床の場でも同じ課題を抱えていると感じているからだということに思い至りました。

 

「患者さんの意見/希望も聞いてあげるよ(参考にしますよ)」という雰囲気が、どの医療現場氾濫しています(その裏には「患者さんの希望をなんでも聞いてはいられない」が貼り付いています)。それを「患者中心」と言い募ります。

 「対等な立場」「パートナー」だから一緒に頑張ろうと、とても「対等」だとは思えない雰囲気の人(だからパートナーとも認定しようがない)から主張されても、それもまた権威勾配の表れにすぎません。

 

 精神科医療が「遅れて」いるのではなく、精神科だからこそ医療の抱える問題が集約的に表れているのです。Shared Decision Makingなどと言っていることで、その現実がかえって見えなくなっているということはないでしょうか。