コミュニケーションで大切なことは、まずは相手の言うことを虚心に(先入観なしに、評価的姿勢を排して)「聴く」ことだと教えられます。私も、いつもそのようにお話ししています(講演や研修では、そこまでしか話せないことが多い)。

 

 コミュニケーション教育が行われるようになって、医者は確かに以前より患者さんの話に耳を傾けるようになりました。けれども、そのぶん、患者さんの言葉を、言葉通りのものとして受け止める「危険」も増しているのではないかと気になっています。

 

 患者さんの言葉は、「混沌」とした思いの中から発せられています。患者さんは、その混沌とした思いの中で、とりあえず「思いついた言葉」「手近な言葉」を「手当たり次第に(?)」手に取って投げかけているのです1)

 言葉はそんなに「吟味」されているわけではありませんし、その余裕もありません。暮らしの中の言葉は、科学の言葉とは違って厳密に意味が規定されているわけでもありません。どんなに落ち着いているように見える場合でも、論理的に話していると感じられる場合でも、そうだと思います。

 そして、言葉を発することで、思いは一層混沌としたものとなります2)3)

 

 だから、言うことにまとまりがなく、理路整然としていなくても、それは仕方ないことです。言うことは、日々、時には一瞬で変わることもあります。

 それなのに、その言葉を文字通りに受け止めたり、言うことが変わることをなじったりすれば、もう患者さんは話すことができなくなります。

 

 自分が言ったことについて温かい言葉をかけてもらっても、どこかしっくりきません。「温かさ」の向かう方向がずれていることのほうが多い。

 「本当は違うことを思っているでしょう」などと問われても、患者さん自身見えていないことですから、そのような問いはさらに関係を悪化させるしかありません。

 文字としての言葉のやり取りだけでは、すれ違い続けるしかないのです。

 

 「混沌とした思い」が渦巻いており、その渦の中で患者さんは溺れかかっています(人間は、どんな時もそうです)。言葉は、そこから発せられています。手あたりしだい言葉を噴出させる「もがき」=蠢動4)を感じ取ることが、患者さんの「言葉を聴く」ということなのです。「聞く」と「聴く」との違いは、そこにあります。

 鷲田清一さんは「聴く」は「利く」5)に通じると言います。

 

 そもそもコミュニケーションに言葉の果たす役割は、表情や言い方などの非言語的なもののそれよりはずっと小さいのです。

 

1)「本当の混沌を現に生きている人々は言葉によって語ることができない。混沌を言語化された物語へと転換させることは、それをなんらかの形で反省的に把握するということである。物語の中で語ることのできる混沌は、すでに距離を置いて位置付けられており、回顧的に反省されている」「語りの倫理は、語りそして聴くという関係のうちに実現される。その言葉を文字通りにとれば、自己物語というものは存在しない。あるのはただ自己と他者との物語である。」アーサー・W・フランク『傷ついた物語の語り手―身体・病い・倫理』ゆみる出版2002

 

2)「「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める。先行するのは「言葉」であり、「言いたいこと」というのは「言葉」が発されたことの事後的効果として生じる「幻想」である。より厳密には、「言いたいことがうまく言えなかった」という身体的不満足感を経由して、あたかもそのようなものが言語に先行して存在していたかのように仮象するのである。」内田樹『こんな日本でよかったね─構造主義的日本論』バジリコ2008

 

3)「病の語りとは流動的で、矛盾に満ちており、臨床家との出会いによっても大きく変容する相互作用の産物である。」北中淳子「語りに基づく科学」現代思想『精神医学の新時代』44-17 2016

 

4)丸山圭三郎の言う「欲動」、ジュリア・クリスティヴァの言う「ル・セミオティック」、フロイトの言う「無意識」のようなものなのでしょうか。

それは、マグマのようなものなのだろうか、地下洞窟の冷たい水の怒涛のようなものなのだろうか(おそらく両方が混じりあっているのでしょう)。地下のマグマの動きが起こす地震のように、患者さんの心の蠢動は医者の足元を揺るがすのですが、その「揺れ」を不快に感じてしまう医者が多いことが残念です。

 

5)「利き酒」「目が利く」の「利く」です。

「正面からきちっと聴こうとする「傾聴」では、すきまやずれは生まれにくい。・・・「聴く」、「聞く」、「訊く」、嗅ぐという意味での「利く」、それらがずれあい、からみあうなかで、かろうじて「利く」という営みはなりたつ。」鷲田清一『噛みきれない想い』角川学芸出版 2009