物語の書き換えは、本人にしかできないことです。私たちはそこに介入すべきではありません(もちろん、書き換えられつつあるその物語の登場人物の一人にはなります)。介入したら、もう本人の物語ではなくなります。

 私たちにできることは、その患者さんの「格闘」を見守り、支持することだけです。それは、放置ではありません。「寂しさ」の共有とでも言えば良いでしょうか。この見守りは、信頼しあえる人間関係が構築されたときのみ可能となります。そのような人がそばにいるかいないかで、物語は全く変わってきます。

 

 「自分を全面的に受けいれてかなしんでくれる存在をもつということは、私たちをなんと安心させてくれることだろう。そのような落ちつきを手にいれたとき、私たちはそれだけでもうすでに自らの力で一歩前進することを準備する元気をあたえられたようになるようだ。」(有馬道子『心のかたち・文化のかたち』勁草書房1990)​​​​​​

 

 だから、医療倫理は、どうすれば医療者は患者さんと信頼関係を作ることができるのかということに尽きるのです。

 

 本人の生き方、人生は、現在の医療者との関わりの中で日々更新されています。だから、現に関わっている医療者がその物語をのぞき込もうとしても、見通せない部分のほうがずっと広いはずです。

 

 物語の書き直しは、当人の人生の過去-現在-未来を一つの(一貫した)流れとして再構築することなので、その全体が書き直されることになります。その時、「未来」によって「過去」は書き直されます。ACP(に限らず患者さんの選択)を、「これまでの人生の積み重ねに沿った未来の選択」と考えるのはきっとズレているのです1)

  

 どのような「未来」(例えば「治療を断念する」か「治療を最後まで続ける」か)を選択するかによって、「過去」は異なるものとなります。「未来」を受け入れられるように、「未来」によって「過去」「現在」は書き換えられていくのです。

 

 「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」(平野啓一郎『マチネの終わりに』毎日新聞出版2016)

 

1)どうして、ACP/意思決定の倫理的妥当性・正当性を求めようとする議論ばかりが重ねられがちなのでしょうか。ACPの問題点を指摘し、少しでも無難なものにする方途を倫理学が提示することは、それなりに大事なことだとは思います、でも、そこに留まっているだけで良いのでしょうか。ACPの“非人間性”を告発してはいけないでしょうか。倫理学は、医療のしていることの事後承認/事後正当化をする“使用人”というわけではないと思います。