病の本質はアイデンティティの動揺/喪失です(〈2022.8.16~8.25〉に書きました)。

 

 アイデンティティをもたずに生きられない人間は、病気による肉体的な苦痛がどんなに強くとも、病いを得た瞬間から、その新たな事態を踏まえての自分についての新たな物語を描く作業に取りかからずにはいられません。 現に苦しみつつある日々の自分のありようについて、そして自分の未来について、少しでも安定した物語(=自分がなんとか納得できる物語)を描かなければなりません。

 なにかしら自分に都合の良い、なにかしら自分が「立派な」「良い人」であると感じられる説明を見つけることができなければ、つまり今の自分のありようを肯定的に考えられる説明が得られなければ、人は生きられません。

 

 人は病いを得たときから人生の時間軸に沿って、自分自身の過去・現在・未来についての物語の書き直しを始めざるをえません。

 自分がどうしてこのような目にあっているか、これまでの人生を振り返り、なんらかの説明を探そうとします。現在のその事態を自分はどんなふうに耐えて闘っているかについて、自分をなんとか納得させられる説明を考え出そうとします。今、この瞬間に現に苦しんでいる自分のありようにも、その苦しさに対して処置をされる自分のありようにも、自分の考える自分らしさが少しでも保たれねばなりません。

 

 自分を納得させられるような姿で苦しみたい。自分の現にある姿は、どんなものであれ自分の誇りや深い思いの表れであると言いたい。

 自分についての物語が根底から揺れている状況の中にあっても、現にある事態をなんとか説明できる物語を、揺れに合わせて作り出さなければなりません。そして、この先の自分の人生が、現在の事態や自分のありようをふまえてどのようなものになるのかという、長期的な人生の展望(=人生設計、あるいはその軌道修正)がわずかなりとも思い描けなければ、今の日々に意味をもたせられません1)2)

(ここまで〈2022.8.19〉の再掲です。)

 

 このことを秋葉峻介さんは「人生の物語の塗り替え」と言います。「塗り替えられ続ける「人生の物語」を患者自身のものとして引き受けさせるために、そして家族自身もそれを引き受ける/受け容れるために、家族には〈ほとんど一体化した主体〉の再構成の一端を担うことこそ求められている」(「医療・ケアをめぐる意思決定と「人生の物語り」の再構成・再創造」『医学哲学 医学倫理』41号2023)

 

 でも、そんなことまで家族は引き受けなければならないでしょうか。家族もまた再構成を担う「良き家族」であることを求められる(そこから外れると非難される)という抑圧を受けることにならないでしょうか。

 患者に「引き受けさせる」と書かれていることに私は戸惑いました。「引き受けさせられる」のでは、それは自分の物語ではないのではないでしょうか。そこでは、逆にまた、「再構成の一端を担わされる家族」による抑圧が生まれます。

 

 書き換えられた物語はみんなと共有されなければならないでしょうか。もちろん、ある部分は「共有」されるでしょう。でも、秘している部分があってはいけないでしょうか。人には、いつも秘したい思いがあり、病の時にはそれが大きくなることもあり得ます。秘しているところにこそ人生があるかもしれないのです。他人には“嘘”の物語を言うことで、かろうじて守られる自分があると思います。

 

 「人は、言葉を、真実を表すために語るのではない。人はウソを作り出すために言葉を用い、隠れるための城を築くために用いる」(竹内敏晴『思想する「からだ」』晶文社2001)

 その「嘘」は問いただされるべきものではありませんし、ましてや暴かれるべきものでもありません。

 そばにいる人は、その言葉に「乗りながら」次に出てくる言葉を待つのみです。そんなことをぜんぶひっくるめて、黙って待ってくれる人が味方です。

 

1)「行為の型は、現実に応答した「意味」生成を可能にする能力であり、人間が現実を受容するために不可欠の装置である。このように考えたときに、病とは型の作成の失敗であり、回復とは型の作り直しであると定義できる」。村上靖彦『治癒の現象学』講談社メチエ2011

私は、治癒とは「新たな日常性の獲得(回復)」と考えています。

 

2)「すべての疾患において、患者さんが「病気の意味」を求めている・・・。つまり患者さんが受ける医療が、患者さんの人生の目的/使命(あるいは人生という物語)と統合されることが重要である・・・。」杉岡良彦「統合医療と次元的人間論」医学哲学医療倫理27号2009