「医学教育における模擬患者との「協働」の実態」という論文を読みました(元濱奈穂子:教育社会学研究109、93-114,2022)

 

 「かつてSPは、医学生の効率・効果的教育という教育者側のニーズを満たすための教材として位置づけられてきたが、近年は、教員と模擬患者とを立場の異なる対等なパートナーとみなしたうえで、SPの参加を通して生きた「患者視点」を医学教育に反映させる、「協働」というアイデアが提案されている。」

 その実態を調査した結果「第1に,患者視点は医師の専門性との差異化という条件下で認識されており,SPと教員の間では,この線引きを越境することなく互いを尊重するという形態の協働が成立していた。第2に,こうした協働は同時に,患者視点と医師の専門性との差異のあり方に揺らぎもたらしており,その揺らぎの中でもSPと教員が協働の実践を維持しようとすることで,患者視点の内実が見えにくくなるという結果が生じていることがあった。」と書いています。

 

 OSCEが公的化されつつある現在の方が「教材として位置付けられている」感じが強くなってきていると私は思っていますが、「それではいけない」という筆者の思いが感じられますし、その思いは貴重です。

 

 「線引きを越境することなく互いを尊重するという形態の協働の成立」「模擬患者と教員が協働の実践を維持しようとすることで,患者視点の内実が見えにくくなっている」という指摘は、「やはり」です。

 「それぞれの大学で模擬患者を養成してください」とは私たちも言ってきました。でも実際に養成されるようになると、模擬患者は教員に「使われるもの」となり、教員に気を遣うことになります。「医者の教育のお役に立てる」と「嬉しくなる」模擬患者も増えてきました。医療に対して「患者視点」からの問いを投げかけることを控えてしまいがちになるのは、必然です。

 

 「忖度し合う」人間関係が重視されるこの国では、「きつい」言葉は控えられがちですし、まして相手の存在基盤を揺るがすようなことは言わないようにします。「強い」立場の人よりも「弱い」立場の人のほうがずっと忖度します(模擬患者も本当の患者も、いつも弱い立場であるとは限りませんが)。

 「模擬患者を自分で育ててください」と言った時、医師が「支配」「指示」「指導」1)したがる人種であることをつい忘れていました。

 

 この論文の執筆者は(検索する限り)医療従事者ではないので、このように書くことはやむを得ないと思うのですが、私は模擬患者演習/活動を医療者との「協働」とは考えてきませんでした(もちろん、そういう側面はあります)。

 模擬患者演習は、医療者/医療の在り方を、直接面と向かって(ソフトに)「医療の問題点を提起」する2)場だと思っていましたし、今も思っています。

 

 「教員と模擬患者とを立場の異なる対等なパートナーとみなしたうえで、SPの参加を通して生きた「患者視点」を医学教育に反映させる「協働」」は、医師が自らの存在基盤を穿つことからしか始まらないと思います(医師である私も問われているのです)。模擬患者演習には、そのきっかけとなる力が今でもあると思います。

 

1)こうした言葉がどれも「し」で始まるのには、何か意味があるのでしょうか。今井むつみ/秋田喜美『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書2023を読んでいたので、ふと気になりました。

 

2)私は、時には「告発」しているつもりのこともあります、可能な限りソフトにですが。