指導医養成講習会や研修会で「困った研修医」「困った指導医」についてのグループディスカッションは、いろいろな事例を思い出すためか、けっこう盛り上がります。「困った研修医」をどう扱うか、いろいろな案が出てきます。医者って、患者に対しても後進に対しても他職種に対しても「指導する」ことがとても好きなのだなあとあらためて感じます。

 

 でも、「困った研修医」は、「悪い研修医」とは限りません。「不肖の弟子」という言葉があります。確かに、先達の途を引き継いで発展させるのはきっと「出藍の誉」の弟子です。でも、先達を育てるのは「不肖の弟子」ではないでしょうか。

 「不肖の弟子」こそ、自分の指導の問題を明らかにしてくれます。「人は指導された通りには学ばない」「こちらの思いは伝わらないものだ」ということを教えてくれます。人と人との関わりについて、思いを巡らさざるを得なくなります。自分の思い通りにならない人に、どのように接したら良いのかを考えさせてくれます。「おかしな」ことを言いだす人のことをどう受け止めればよいか、勉強になります。どのようにすれば、いくらかなりとも自分の思いを伝えられるか、それは「修行」です。

 

 「不肖の弟子」は先達にとっての教師なのです。ディスカッションで「困った研修医から何が学べるか」「困った研修医のお蔭で自分はこんなふうに成長した」といったことが話されることはきわめてまれなのですが、そんなことを話し合うと「指導」ということがもっと面白く、深くなるのではないでしょうか。 

 

 「困った指導医」のことを話し合う時、そこでは「自分が、困った指導医になっているのではないか」という自問は聞かれません。「自分が困った指導医だと思った時」というテーマを出さない私たち企画者の側に問題があるのでしょうか。でも、それはやっぱり誘導しすぎ?

 

 そう考えると「困った患者」も同じことです。「困った患者」こそが、私たちのしている医療の意味を逆照射してくれます。患者さんとの付き合い方をあらためて考えなおすことを可能にしてくれます。なによりも、人間の奥深さを学ばせてくれます。

 「コミュニケーションのうまくいかない(と感じる)」患者さんこそが、私たちのコミュニケーション力を高めてくれるはずです。そのような患者さんへの「適切な対応」が書かれている本や、模擬患者を利用した対応演習があるのですが、「対応」はまず自分の姿勢を変えることから始めなければなりません。

 

 私を指導して下さった方々に対して、私が「不肖の弟子」でしかなかったことへの言い訳をしているわけではありませんが。