模擬患者は医学教育のツールの一つにすぎません。そのツールをどのように教育に活かすかは教員の仕事です。教員が「演習室・試験場の外でも、模擬患者さんに礼儀正しく接しなさい」と指導すればその思いを受け止める学生・研修医は必ずいます。教員が「模擬患者とは教育上使用・利用するツールに過ぎず、教員の要請とおりに動いてくれさえすればよい」と思っていれば、その雰囲気が必ず学生・研修医に伝わります。どのように活かされるか、模擬患者は「まな板の上の鯉」です。

 

 その意味で、模擬患者さんと接する教員・指導者は、自らの姿勢を問われているのです。とはいえ、模擬患者(に限らず部外者)から「学生は・・・ができていない」と言われると、教員はどうしても自分の指導を非難されていると感じて、防衛的になったり反発したりしかねません(そう感じても、外向きには「ごもっとも」「貴重なご意見をいただきました」と言うでしょうが)。

 「面接室の外では挨拶もしない学生がいた」ではなく「面接室の外でも挨拶してくれた学生さんがいたのが嬉しかった」と伝えれば、教員も「室外でも挨拶しなさい」ではなく「室外で挨拶した学生のことを模擬患者さんが喜んでいたよ。自分もそれを聞いて嬉しかった」などと言ってくれるかもしれません。I(アイ)メッセージは有効なのです。

 

 「模擬患者はツールだ」と思う教員と「自分たちはただのツールではないのに」と思う模擬患者との間には何も生まれないでしょう。「私たちはただのツールですから」と言う模擬患者と「ツールなどではありません。私たちの大切なパートナーです」と言う教員とが向かい合うとき、教育だけでなく医療が変わる芽が生まれます。

 

 自分のことをただのツールと考えることにはいささかの不快感が伴うものです。でも、連続テレビドラマ「てるてる家族」94回で、夫の春男(パン屋)が妻の照子に諭します。

 「照子は、春子(長女)を作る職人やあらへん。お前は春子のイースト菌になって、春子が確信を持って(スケート)練習できるようにしたらな、あかんのや。それで、春子は初めて自分を高めていける。春子は自分の目指す春子になれんねや。お前が代わりに目指す事はでけへんのや。イースト菌はな、パンがふっくらと焼き上がったら、跡形ものう消えてしまうんや。嫌でもしゃあないね。それが、親や」。

 

 教育に関わるということは、自分はイースト菌なのだと自覚するところから始まるのではないでしょうか。そして、そのことはきっとどのような人間関係でも、もちろん医療における医師の仕事についても、あてはまることです。医療者がパン職人だなどと思うからおかしくなるのです。パン職人は、もちろん患者さん自身です。