「SPは身体診察も」と、SPに「身体を差し出す」ことを求める人は前からいますが、その根拠はずっと「面接に続いてSPの身体診察ができると、診察の流れが遮られずによかった」「リアリティがある」ということに尽きています1)

 「たかが」模擬患者なのに、リアリティが大切なのでしょうか。そもそも、「リアリティがある」ということをアプリオリに「善いこと」「教育効果を上げること」として語ってしまって良いのでしょうか。

 医療面接で本当に伝えたいリアリティがあるとすれば、それは「穏やかに、さりげなく接する裏側で、自分の全能力を駆使して患者さんと必死の真剣勝負をしているのが医療面接だ」ということしかありえないと私は思います。

 

 学生が、「模擬患者ってほんものっぽ~い」とか「白衣を着て、はじめて年寄りに触ったぞ。スゲ-」というのは、見世物であって「リアリティ」ではありません。そのことに目配り・気配りする姿を見せなければ、教育ではありません。模擬患者が(「教育的効果」という概念自体も)、より「お買い得な商品」として扱われる仕組みに私たちが取り込まれているようにも感じます。

 

 SPを教育の協力者の位置にとどめるのではなく、私たちと一緒に学生を育てる仲間として、そして、そのことを通して一緒に成長する友人(学生や研修医も入ります)としておつきあいしていく。そこから、医学教育、そして医療そのものの枠組みを、一緒に少しずつ「ずらし変え」ていきたい。SPの人たちは、多かれ少なかれそのような思いを抱えてこの活動に参加しているのです。

 

 「医師の枠組みに沿った情報を集め、医師の枠組みに乗せるためにコミュニケーション教育を行う」と考えるか、「患者さんの世界を知り(感じ取り),目の前の患者さんの世界を支えるためのコミュニケーションを一緒に考える教育をしよう」と考えるか。

 「模擬患者が身体診察もさせてくれるほうが、教育効果があがる」という意見に私がなじめなかったのは、コミュニケーション教育の目指すところが違っていたからなのでしょう。

 

1)「最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。」ショーペンハウエル『読書について』岩波文庫1983