患者さんの「すべて」を知らないと、その人とつきあえないということはありませんし、患者さんについて「知っていること」が多い方が良いつきあいになるとは限りません。「情報が多ければ多いほど良い医療ができる」と思うのは「錯覚」です。「あえて知らないでおくこと」「あえて触れないこと」を少しでも多くしたつきあいの「面白さ」と「深さ」を、ドラマに教えられた気がします。

 

 「つらいこと」などわかってもらわなくても良いし、そんなことと関係なくその人らしく明るく傍にいてくれる人とこそつきあいたい、話せば同情されるに違いないけれどそんな気配の無いところでつきあいたい、ということがあると思います。先がはっきり見えないどうしが、その世界を一緒に手探りで進むところに生まれるケアと、患者さんの病状や予後を知ってしまっているところで生まれるケアとは、異質なものです(どちらが良いというわけではありません)。医療者が、前者に辿り着くことは急坂を自転車で漕ぎ上るくらい大変なことだと思います(電動自転車というわけにはいきません)。

 

 医療面接(演習)でも、情報をたくさん「引き出せば出すほど」良い面接であるといった意味の指導がされることがあります。もちろん、どんなに頑張っても初回面接から深いことを「聞き出す」ことができるはずはありません。初対面の時からこと細かに(細大漏らさずに)尋ね続けられてしまうと、この先自分が丸裸にされてしまいそうで、かえって身構えてしまうこともありそうですし、時には「壁」が急造されてしまうかもしれません。患者さんをめぐる情報の多くは、「正規の」面接場面においてよりは、日々の「雑談」の中で少しずつ集められていくものです。それに、雑談の中で集められた情報は「聞かなかったフリ」をすることも可能です。

 

 コミュニケーション教育で、コミュニケーションの「楽しさ」が伝えられているでしょうか。コミュニケーションは、はじめて出会う瞬間に生まれる雰囲気に支えられて、患者さんと医療者とが絡み合うこと(=相互作用)で生まれてくるものです。相互作用ですから、関わりはこちらの意図と多少なりとも「ずれ」続けていきます。ずれるからこそ意外性に満ち、新たな「発見」が生まれます。そのような関わりだからこそ、ケアは「楽しい」と言うこともできます1)

 

 コミュニケーション・スキルは、「楽しい」おつきあい2)のための道具です。その道具を身につけると「患者さんと接することが楽しくてやめられなくなる」ということに繋がらないのならば、その道具の出来が悪いのです。

 

1)コミュニケーション教育を、スキルという型枠に嵌め込むものになっていると批判する人がいます。「(医学)教育が大きく災いしている。コミュニケーションを技法と称し、ツールとして用いる。手段化された人間関係の構築は、相手を対象として冷やかに見つめる観察者、対象を操作する技術者をそだてるだけで、生のつきあいを遠ざけてしまう」(川島孝一郎、現代思想 Vol42-13  2014)。川島さんは仙台で往診専門のクリニックを開業しておられるのですが、「ずれ」の上に成り立つ患者さんとのつきあいを楽しんできた人なのではないかなと、私は思っています。

 

2)「楽しい」ということは「笑いに溢れた」とか「冗談ばかり言い合う」という意味ではありません。もちろん、笑顔も冗談も欠かせませんが。