20年近くまえのことですが、学生がこのようなブログを書いていました。

 「SPさんのフィードバックはとても丁寧で、率直でありながらもこちらを気遣っている感じでとても勉強になった。いずれもずっと年上の人ばかりだったのでそもそも人としての年季が違うし。あ~すれば良かった、これ聞けばよかったと色々後悔しつつも発見が多くて非常に楽しい。また「こういう相槌をうってくれたのがとても嬉しくて、ほっとしました」と言ってもらったのがとても嬉しかった。その日寝るまでずっと」。

 

 30歳を過ぎて、子どもも居て、医科歯科大学に入学した女性でした。「勉強になりました」「この経験を忘れず、生かしていきたいと思います」という何人かの「とおりいっぺん」の挨拶しか私たちには見えません。それに、彼女の抱いたような感想は、後からしみじみ湧いてくるものでしょう。私たちの見えないところで、このような思いもいっぱい生まれているのかもしれないのです(私は、それ以前に偶々このブログを見つけて、時々読んでいました)。

 

 医学生は、医者になることのできる大学への入学を選んだ人であって、医者になると決まっている存在ではないということを、私たちは忘れがちです。事実、「自分は医者に向いていない」と、その途を断念した人も決して少なくはないのです1)。医学生は「医者になっても良いな」と思っている存在であり、「どんな医者になろうか」と迷っている存在です。そんな人にとって、「医者として望ましい態度」が規範として提示され、「良い医者になってね」と叱咤激励する視線があからさまに迫ってくることは、きっと鬱陶しい2)。医療面接演習を通して私たちにできるのは、「とても嬉しかった」思い出を贈ることだけなのではないでしょうか。

 

 このような経験をした人が、その経験から患者さんに「嬉しかった思い出」を贈る医者になってくれるかもしれません。中堅の整形外科医となっている彼女は、今もこの時のことを覚えていてくれるでしょうか。

 

1)「一人の医者をつくるためには多額の税金が投入されている」というようなことが言われがちです。医学部に入ったのに医師にならないと言い出す人がいれば、「どれだけ税金が無駄になると思っているの」「あなたのために、入試に落ちた人がいるのに」などと責められそうです。でも、なにごとにも一定の「無駄」が算入されていなければなりません。それは、人生でも、税金の投入でも同じです。無駄なく税金が使われるべきだという考え方は、「文系学部不要論」や「オリンピック選手の育成には多額の税金をかけているのだから、メダルも取らずに「楽しむ」などと言っていてはいけない」という批判、「高齢者医療にこんなに税金が投入されていて無駄だ」という批判、さらには「こんな人が生活保護を受けている」という批判からたくさんの保護を必要とする人が切り捨てられる事態にも通じる危ういものだと思います。医師になることを断念した学生にも、その経験がその後の人生に生きてくると信じるのが教育だと思います。

 

2)模擬患者が「私たちがこんなに一生懸命にしているのだから、学生も真剣に受け止めてほしい」と思ってしまうとしたら(ついつい、そんなふうに思いがちです)、それもまたある種の教育者の傲慢さを免れていないと思います。「指導」する立場で自分が経験した「嬉しかった思い出」を心の中で温め続けていくことで、私たちも成長していくのです。