「ACPの宣伝(1)」で引用した医師のメールは、「一般の皆さまには、蘇生や延命治療が必要になったときにそれらを希望するか否か事前に話し合ってほしい。医療者の皆さまには、患者さんと事前指示・ACPを話して患者さんの価値観に沿った医療を提供してほしい」と続きます。やっぱりACPは、最期の時のためのものなのです。

 

 でも、患者や家族が事前に話し合うための情報はどのように提供されるのでしょう。医療の言葉は難しくて通じませんし、シロウトには「蘇生や延命治療が必要になったとき」を具体的に思い浮かべることも出来ません(身近で見たことがあっても、それはそれだけのことです)。「蘇生や延命治療が必要になったとき」という一般的事態があるわけではなく、実際に起こる状況は多様で、事前の想像を超えています。

 

 患者に与えられる情報は医療者の恣意を免れませんし、その裏には「医療費抑制」や「社会的正常」といった思惑が潜んでいます。さまざまな情報、さまざまな統計的数字によって、人の生きることが管理されます(この「生権力」からは医療者も患者も免れていません)。そのような状況の下で話し合いが行われて、患者の「意向」が表明され記録された瞬間、たとえそれがなかば強制的に誘導されたものであっても、患者の「希望」として全面的に患者に責が負わされます。「自己決定」という言葉に患者は縛られます。

 

 「決定はいつでも変えられます」と書いてあるからといって、毎日決定を変える人に真剣に付き合ってくれる医療者は稀です(「問題患者」とされてしまうでしょう)。「賢い患者」というような言葉が、こうした仕組みに取り込まれてしまうことを加速する可能性は小さくないと思います。

 「おりこうさん」でいようとすると、「自分はしてほしくないのに、なぜ親に延命治療をするのか」1)といった「論理的な攻撃」に勝てなくなります。患者に論理的整合性を求めることの残酷さに、医者は鈍感です。

 「おりこうさん」であらねばならないというポジションに早々に見切りをつけることを、患者の生きる権利として確保しておくことの方がずっとだいじだと私は思っています。

 

 「最後までできるだけの治療をしてほしい」と望む人が「国賊」「非国民」と言われる日がまもなくきそうです(すでにそのような意味のことを言っている人も少なくない)。「平穏死」について書かれている本の新聞広告に「『安楽死』を選ばずとも、自宅でおだやかな最期は可能。それが日本の文化です」とありました。「日本の文化」から「あるべき死に方」を説きだすことと「非国民」との距離はさほど遠くないのです。

 

 私の勤めていた病院で実際にあったことです。

 「『何もしない』って、本当に何もしないんですね。たしかに私たちが選んだことだけれど、心臓マッサージもしてもらえなかったんですね」とご家族が言われました。連絡を受けて病院に駆け付けた家族が見たものは、個室に「放置」されていた亡骸でした。医療者は誰もそばにいませんでした。

 「DNRを選んだのだから心肺蘇生などの処置は何もしない」と医療者は思いますが、家族は「器械をつないで延々と治療することはないけれど、最後まで一生懸命医師が何かをしてくれるだろう。『何もしない』と言っても家族が集まるまでは蘇生処置くらいはしてくれるだろう」と考えます。放置されるとは思いもしませんし、医療者もその場で死を悼んでいてくれるものだと思っています。家族は、手を握り見守る中で、親しい人の死を宣告されたいと思いますが、そのような光景が、「無駄」だと切捨てられようとしています。

 

 福島県立医科大学整形外科の元教授・菊地臣一さんは常々学生たちに礼儀作法について厳しく教育をしていたのですが、ある時、女子学生が涙ながらに「先生の言うことがはじめて判った」と話しに来たことがあったそうです。「自分のおばあさんが真夜中に亡くなった時に、当直医はジーンズで素足にサンダルを引っ掛け、Tシャツで白衣の前をはだけ、聴診器を首に下げ、不機嫌そうな顔できたそうです。その時に自分の両親や自分は本当に情けない思いをし、人間の人生としての終わりに立ち会うのにこのように尊厳を犯す態度は許されるものだろうかと憤ったとのことです。患者の立場になってみればすぐわかることが、『する側』にいては中々見えないのです。」(菊地さんのブログを簡略化しています。)

 

1)ある本の副題です。このような「問いかけ」は呪縛にしかなりません。「生老病死」はどれも不条理で、最期の時は不条理の極みです。自分と親に対する思いが違うのは当たり前だし、自分だってそのときになればどう思うかわからないのだし、自分もそのときには周りの人の思いに左右されるしかありません。それなのに、どうして「論理的でない」と責められなければならないのでしょう。「論理的である」ことは大切なことですが、「論理的でない」というニュアンスの言葉が人を二重に痛めつけてます。「自分の未来についての漠然とした思い」と「現在進行している事態の中で、当事者として他人の命を左右する立場に居る思い」とを同じ土俵に乗せて語ること自体が「一見論理的な非論理」だと思います。