本日の「私の柔道履歴書」は


「世界選手権フィリピン代表」の中野経清選手の中編です!😁




県予選では決勝で負けてしまい、全国に繋げることは出来ませんでしたが、東北で5位に入ることができ、岩手県の名門校である盛岡大学附属高校に進学します。


ちょうどその頃、フィリピンに練習に行った際に兄(亨道)が国内予選に出てみないかと誘われます。自分たち弟は、高校進学時に地元を離れ寮生活をしていて柔道に打ち込むために厳しい環境に居たということもあり、高校時はフィリピンに行くことは出来ませんでしたが、兄(亨道)が2回目の国内予選で入賞して色々な手続きを踏まえナショナルチーム入りを果たしました。


それからは自分たち弟はインターハイを目指し、兄(亨道)はオリンピックを目指して、それぞれの目標に向かって頑張りました。国士舘出身の監督でものすごく厳しく、何回も嫌になり、加えてメンバー争いなどで苦しみながらも最後の年のインターハイ予選ではメンバー入りして惜しくも決勝で負けてしまったものの、個人戦では双子の兄(修源)と県の決勝で兄弟対決を実現することが出来ました。親や監督に最高の形で恩返しすることができ、個人でインターハイに出場することも出来ました。兄(亨道)にも良い刺激を与えることができ、人間的にも大きくなれる3年間を過ごせました。




それまで兄(亨道)がどのような経緯でフィリピンのナショナルチームに入れたのか、詳しく知りませんでしたが、高校卒業時に3年ぶりにフィリピンに里帰りした際に『ハーフのため国籍を取得できること』『国内予選で成績を出せばナショナルチームに指定されること』など手続きの細かい部分まで知りました。もちろん、現地のフィリピン人にとっては面白くない話だと思います。


大学に進学し、1年のとき自分たち弟も兄(亨道)を追うようにフィリピン国内予選に出場します。何回か出場し、成績を残し、フィリピンナショナルチームに入れたものの、現地の人たちに認めてもらうために積極的にコミュニケーションを取ったり、色々な場所に出稽古に行ったりと認めてもらうのにものすごく時間がかかりました。


平行して、日本でも数多くのバッシングを味わいます。「日本から逃げた」「日本人のくせに」「フィリピンだから」など精神的にも苦しい侮辱や差別も数えきれないくらいありました。しかし、自分たちにとって日本も母国ですが、フィリピンも大切な母国なのです。今までお世話になった監督たちや応援してくれる人たちは「せっかく生まれもった選択肢があって可能性が広がるのであれば、日本もフィリピンも関係ない。自分たちの母国のために胸を張って頑張れば理解してくれる人は増える。」と応援してくれ、その言葉に救われながらバッシングと向き合い続けて頑張っています。


それからは兄(亨道)を筆頭に自分たちはジュニア、兄(亨道)はシニアのフィリピン代表として活動していきました。2016年、兄(亨道)のオリンピックマークが点灯していたものの、ぎりぎりで外れてしまい夢であったオリンピックを諦めかけた時、アジア枠で欠場選手が出て奇跡的に兄(亨道)が繰り上げ選手として選ばれることになりました。家族もみな諦め気を遣って話題にも出さなかった、あの2016リオデジャネイロオリンピックに兄(亨道)の出場が決まった瞬間の感動は今でも忘れられません。


一度の人生で限られた人しか経験することのできない大舞台に兄弟が出場できるなんて夢にも思いませんでした。数多くのバッシングを受けながらも大舞台の切符を掴み取った兄(亨道)の姿を見て自分たち弟もフィリピン代表としてオリンピックを目指したいと強く思うようになりました。



後編へ続く👏👏👏



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