日本の薬草のことを知りたくなった

日本の薬草のことを知りたくなった

薬草の恵みを生活にとりいれるのが日々の楽しみ。ときどき星読みもします。茶番パンデミックのおかげで目が覚めました。

日本で古くから薬草の知恵を伝えてきたのは、

修験道の山伏だった―

 

それを知って最近、

修験道ってどういうものなんだろうと関心を持ち、

本を読んでいました。

 

山伏といえば、こんなスタイル。

(画像は聖護院門跡のウェブサイトから拝借しました)

 

 

修験道とは、

大昔からの日本人の自然信仰や古神道に

外国由来の仏教や道教が融合して生まれた

日本古来の信仰です。

 

今、修験道に馴染みがある人は少ないですが、

実は、日本人の精神文化の基層に

深く刻み込まれている信仰だとも

言われています。

 

修験者たちは深い山にこもって

自然と一体化しながら修行するので、

薬草についての知恵を豊富にもち、

それによって多くの人々を癒していました。

 

修験道の開祖とされる役小角(役行者)は、

松葉を食べ、藤の皮を着物にし、

修行に励んだ結果、神通力を得て、

五色の雲に乗って空を飛べるようになったびっくり

という伝説が残っています。

 

役小角の像。前鬼、後鬼を従えています。
(画像は
金峯山寺のウェブサイトから拝借しました)

 

 

明治の初めごろ、

日本の人口がまだ3000万人台だったときに

プロの修験者が約17万人いたそうですから、

ざっと計算すれば、

日本人約200人のうちの1人が

プロの修験者だった、ということになります。

 

それだけ修験者は

かつては身近な存在として支持と尊敬を集め、

精神的・霊的な面でも、医療面でも、

人々を支える役目を担っていたようです。

 

※ちなみに現在の日本では、約1億2000人の全人口中、

僧侶や神官の人口は約24万人。

 

近年、スピリチュアルなことに関心を寄せる人や

ヒーリングやセラピーを仕事にする人が増えていますが、

修験道が当たり前のように身近にあった時代と

少し共通するものがあるように感じます。

 

 

 

色々本を読んで調べていると、

日本における薬草文化の衰退は、

修験道の衰退と深く関わっていたらしいことが

分かってきました。

 

それは明治時代に端を発します。

 

まず、1968(明治元)年の神仏分離令。

 

これによって、神仏習合の信仰だった修験道は

大きな打撃を受けます。

 

続いて、1872(明治5)年には

修験道廃止令が出されています。

 

修験者たちはこれによって職を失い、

その多くが薬草や和薬の知識を活かして

薬屋に転職していったようです。

 

その後も政府は

薬事法を繰り返し改定することで

修験者たちの活動を取り締まっていき、

日本の風土に合った和薬を使えないようにしつつ

一方、権威ある大学の世界では

西洋医学だけを教え、

「医療=西洋医学」という新常識を

作り上げていった。

 

そういう歴史があったのですね。

 

 

 

修験道由来の薬として

現代にもわずかに伝えられているのが、

「陀羅尼助丸(だらにすけがん)」や

「百草丸(ひゃくそうがん)」。

 

キハダやゲンノショウコなどの薬草で作られた

胃腸薬です。

 

陀羅尼助丸は、

修験道の開祖である役小角が

陀羅尼経を唱えながら煮詰めて作ったと

言い伝えられている薬で

役小角が開山した大峰山のふもとに

今も製造会社があります。

 

 

 

自然療法の衰退は意図的に起こされたことだ、

というのは、以前の記事にも書いた通りです。

 

自然療法が封印された背景には

西洋医学利権が深く関わっていたわけですが、

こうして修験道と薬草文化の衰退が

同時進行で起きていた歴史を知ると、

自然と調和し、自然の恩恵に感謝しながら生きる

日本人の精神性・霊性を封印しようとする狙いも

そこにはあったのではないかと

疑念が湧いてきました。

 

薬草文化の歴史をひもとくと、

面白い情報が出てきますね。

 

 

本参考にした本

古谷暢基・平川美鶴『和ハーブ  にほんのたからもの』

宮城泰年・田中利典・内山節『修験道という生き方』

銭谷武平『役行者伝記集成』