弦楽四重奏曲について採用をみると創始のハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンとあるが、ロマン派からはなくラヴェルになる。

ハイドン流で弦楽四重奏曲でやれることはベートーヴェンでしべてやっちまった ということでしょう。

 

ラヴェルの各楽章および全体を拙は把握することができませんですた。というのもハイドン流のふし、展開がない。Noミソには響きがくるだけなのだが、一種神秘的で悪くないのもある。が、大勢は近代機械文明、大都会が発する音に連なるものであり、和めません。現実世界でほとほとうんざりしてる音をさらにゲージツで聴きたくはありません。貼付け書ではラヴェルの作品が他に5採用、補欠が2あるのだが、追究する気がなくなりますた。ちなみにボレロは補欠でさえない。

ラヴェルといつでも並び称されるドビュッシーだーら、どーせ同じく拙的にはハズレだろうとおーってLPを裏返しますた。

ところが、当たりだったんだね。4楽章主題がはっきり聴きとれる。

ハイドンの弦楽四重奏曲は今更聴こうとはおーわないが、こりはかけてもいい。CDに買い替えますた。

この曲は貼付け書ドビュッシーで採用6曲のうちになく、補欠でもない。また、拙の好む牧神の午後への前奏曲は補欠でさえない。

たぶんラヴェル、ドビュッシーの落選曲で拙が好む曲は、彼らのドイツ後期ロマン派に対する独自性が希薄な曲なのでせう。

拙は彼らの本領を理解できる耳を持ちません。拙が楽しめる音楽は後期ロマン派まで。

 

ドビュッシー 1862-1918

おパリ、印象派。おサレなイメージにつられて管弦楽曲、室内楽、ピアノ独奏曲のいくつかを聴きますた。バーに理由がわーるわけもないが、ハイドン以降の独墺音楽には聴かない「色彩と響き」があるはわーりますた。

んが、聴いたうちで曲としてわかったと言えるのは、「牧神の午後への前奏曲」「亜麻色の髪の乙女」。鼻歌できます。独自の作曲技法によっても結果的に独墺音楽に近いものになったのでしょう、多分。

その他大部分の曲はわーらない「色彩と響き」の連続ですから苦痛、エンタメになりません。リピートしませんし、もっと他をいろいろ聴いていく気にはなりませんですた。

歌劇「ペレアスとメリザンド」

「どこもここも、あんまり変わらない」「メリザンドなんか、まるで溜息をつくだけで、まったく歌わないみたい」

歌わない劇なんちオペラではありません。

こりはイタリアの歌劇場で頻繁に上演されているのだろうか。

プッチーニ、R.シュトラウス、マスネーと違い「猥雑さから遠い」としても、ワーグナーとは違う作曲法でも、退屈の塊な点は楽劇と同じでしょう。観る気になりません。

拙にとって、おパリ、印象派絵画、印象派音楽、どれもリピートしたいまでのミリキはありません。

 

貼付け書付属レコード表に印象派の後は51曲。

複数曲採用はバルトーク、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、オネゲル、ミヨー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ヒンデミット、メシアン。

こりらがTVのドラマやいろもので使われることはないのでは。そゆ曲が拙にわーるとはおーえず、聴いたことはありません。

現在に直結する20世紀以降のゲージツは、拙にとってストレスに過ぎず、見たくも聴きたくもありんせん。