ヴァーグナー 1813-1880

ロマン派音楽の集大成。

ドイツ後期ロマン派のなかで新ドイツ楽派の中核。

ベルリオーズ→リスト→ヴァーグナー→ヴォルフ→ブルックナー→マーラー→R.シュトラウス。

こりほどの音楽家であるにもかかわらず、その楽劇の一つさえ独立の項にしません。ハマれなかったからです。

4曲採用のうち「トリスタンとイゾルデ」

蠱惑的でイミありげな響きで充満している。ストーリーのせいもあるだろうが、浮き立つことは決してない。歌劇だーら長いが、キャッチーなふしといったら最初と最後の愛と死のみ。それも最後のはどんだけ繰り返しゃー気がすむの?拙はともかく世間一般はそこまでやらにゃわーらんほどバーでも暇人でもない。この作曲家は簡潔な表現ができない。

ほとほと退屈しますた。1回斬りー。

 

モノクロ

おパリオペラ座で上演の幕間、ヒロインと同じ音楽学校生の青年が比較して、ヴェルディ、プッチーニをバーにする。

ヴェルディらに対位法的交織はあってもワーグナーほど複雑、巨大ではない。プッチーニはトリスタン和声を模倣。

んが、ワーグナーには彼らほどのメロディー作出力、リズム感がない。こりこそが、この青年、「識者」が何といおうと音楽のエッセンス。ないのがどんな理論をもってこねくりまわそうと音楽はたちあがってこない。

ハネてから気分よく何かを鼻歌しながら家路につくはないだろう。

んなもん拙のエンタメにはなりません。

しかしながら、この青年のように虜になるシトもいる。ガッコの民訴法のセンセは指輪四部作のあなしをいつもしていた。講義なんかするより寝っ転がってえーえんに聴いていたかったに違えねえ。

ニーチェが地獄の快楽と評した麻薬的ミリキ。

こり以上やる気なくなると廃人になっちまうこともあり、他に1曲も聴いたことがありません。

 

 

ブラームス 1833-1897

 

ドイツ後期ロマン派だが、新ドイツ楽派ではない。

拙にはワーグナーよりよほどとりつきやすかった。

例えば作品名はハイドン、モーツァルト以来見慣れたもの。オペラは作曲できなかった。ワーグナーにない形式感の持ち主。

ワーグナーに交響曲、弦楽四重奏曲などはありません。

交響曲は全4曲。

第1貼付け書は第二番と第四番を採用。

誰が何番を名曲に選ぼうと、あるいはじぇんぶ選ぶまいとご自由。

拙定義売れてる曲によればしべて名曲。ではあるが、1曲にしぼってみませう。拙好みはこり というだけのあなし。

 

第三番ヘ長調Op90

第二楽章だか第三楽章だか映画に使われた。そのふしは好きで鼻歌もできるのだが、残りはじぇんじぇん覚えてません。だーらといってかけてカクニンしてみる気もおこりません。→脱落

 

第二番ニ長調Op73

作曲家が過ごした地の美しい自然から霊感を受けた牧歌的な作品。ブラームスの田園交響曲。

ほぼ覚えているからではなく、かける気がしません。ブラームスの朦朧を幸福気分でやられると蒸し暑くて息苦しい。

こりを採用し、ベートーヴェンの交響曲第六番を採用しない第1貼付け書の著者の気がしれません。→脱落

 

第一番ハ短調Op68

鬱屈した青春ブタ野郎時代には気に入ってよくかけますた。だーらほぼ覚えています。じも、耄碌した今はあらが目立ちます。

気分の統一がとれてません。中間2楽章が明るく優美で両端の重っ苦しい陰鬱から浮いています。フィナーレはベートーヴェン交響曲第九番歓喜の歌に似てそれ自体は朗々と流れてけっこうであるが、突然とってつけたような違和感があり、これで終わる説得力はありません。

ベートーヴェン以後に交響曲を作曲しようというのだからベートーヴェンの苦難を通じて天空まで にとらわれるのはやむをえないが、成功していません。というのも、ブラームスだってこの交響曲第一楽章の楽想を着想した頃には苦悩していたが、人間的闘争といえるスケールではなく、禁断の恋。

徹頭徹尾スサノオみたく荒れまくればそれで少しは気が晴れる。そゆ風に構成すべきだったのでは。その際4楽章にこだわることもなかった。→補欠

LPはミュンシュ/パリ管ですたが、CDに買い替えてません。

聴いたことはないが、こゆのはフルトヴェングラーが良さげ。

 

第四番ホ短調Op98

一押し。ドイツレクイエムなど未聴だが、たぶんブラームス最上の作品。

人間の避けられない老いと死の寂寥を表現した曲とおーいます。意気軒高だった頃を回想し、まだまだこれからと抵抗はするのであるが、運命は定まっている。

ベートーヴェンがやってないことをやっち、成功している。

第一楽章たった2音のゆれだけで押し通して何らむりがない。

第四楽章パッサカリア。八小節の簡単な主題が三十一回くりかえされる。バッハがよみがえって交響曲なるものを知り、作曲したらこうしめるんでないかい。

 

指揮者によって演奏が異なる を理解さしてくりた録音。

曲が曲だけに冬枯れのサンみた印象になってトーゼンのところ、錦繍のサンになっている。艶めいた色気があります。

こりが、ワルターの指揮は歌う ということかとおーうのだが、もっと歌いやすい第二番の録音では歌っていると感じませんですた。

こりに魅せられたので、他の盤で聴く気にはなりません。

 

ブルックナー 1824-1896

ショーワの昔にはブルックナー熱も流行。

ブラームス第一番初演時にベトヴェンの第十と言われたそうな。

一方、ショーワのブルックナー愛好家によれば、ベトヴェンの交響曲のおんとーの後継者はブルックナー。

どーだーら後継と言えるのか は拙にはわーりません。従って、ブルックナーが、あるいは他の誰かが後継と言えるのかもわーりません。

まあしかし、後継であればおーしろく、後継でなけりゃおーしろくない はないでしょう。

第1貼付け書では第7番を採用。

彼の交響曲は、やたらと出てくるゼクヴェンツ(摸続進行)、飽くことのない金管のファンファーレ、スケルツォのやけに単純な三拍子、チョー長いアダージョ だそうな。

この作曲家にも内容表現に必要十分な長さという思考が欠落。

聴くまでもなくうるさーい、退屈の塊。

仮に真正な感情が感じられるとしても拙にとってエンタメにはならないのは明白。聴かなければならない曲、聴かないとコマる曲なんちこの世にありません。彼の何番の交響曲も聴いてません。