新田義貞の首塚がある
桐生市新里町新川 善昌寺 参拝
延元三年1338年七月二日新田義貞は越前の国
足羽七城を攻め落とすことを部下七隊に命令 配陣
部下を率いて大雨の中 出陣 燈明寺畷で敵に遭遇
大激戦 敵も新田義貞目がけて矢を集中 忠臣らも
義貞大将の盾になったが 次々と討死
愛馬も倒れ
義貞の眉間に矢が突き刺さり 断念
敵の刀に切られる前に 自害 この時38歳。
新田義貞の自害で忠臣ら何名か殉死
義貞亡き後 戦いが不利になるので武士たちが去っていった。
敵軍が数ある死体の中から新田義貞を発見
日吉神社拝領の太刀「鬼切」と錦袋の「吉野帝の綸旨書」
を所持 大将の甲冑をつけていたことから。
首は氏家八郎重国が京都に持参
新田義貞の首は、京都 都大路に獄門にかけられたので
都の人々は 泣き悲しんだ。
新田義貞の北台勾当内侍(京都の妻)は召使いの丹の局に申しつけ
義貞の首を奪って新田家へ届けるように命じた
丹の局は首をお骨にし新田庄まで行ったが不在なので
新里町の新川の善昌寺お骨を埋葬したとある。「新田氏古記録」
桐生市新里町新川 善昌寺
新田義貞の首塚とされる五輪塔(中央)
由緒書
善昌寺文章より
桐生市新里町新川 市指定重要文化財 風化した五輪塔が30基余り現存する。
新田氏家臣 船田長門守善昌は新田義貞に従い各地に転戦
負傷したので新田庄に帰ったが足利軍が新田の庄を占拠
新里村新川 大同寺(善昌寺)に逃れ出家した。
新田義貞戦死後に善昌の息子 船田長門守は僧侶姿となり
越前藤島や金ケ崎城で戦死した家臣らを火葬し新田に帰国
善昌の居る大同寺(善昌寺)の裏山に埋葬した。
新田義貞の十三回忌と新田義重(新田の祖)百五十回忌が正平六年
ひそかに集まった新田一門が追善供養をした。
この頃から大同寺を善昌寺と呼ぶようになったとされる。
応仁2年3月3日に善昌寺の住職が記した古文書に
新田氏一門の戦死者と法名が記してある
「善昌寺古記録応仁記」
新田一族
新田義貞 新田義宗
里見修理亮経成 鳥山伊賀守義明 山名八郎入道元了 大井蔵人氏政
大江田六郎経重 市川五郎邦重 山内左衛門直 堀口美濃守貞満
世良田次郎親吉 里見五郎義胤 山名兵庫頭忠家 江田三郎光義
加賀美小三郎直治 額田三郎正忠 岩松三郎常家 大島讃岐守
大舘左馬之介宗氏 細谷馬之介勝直 堀口掃部貞祐 桃井播磨守直常
羽川備中守義則 堀江対馬守忠義 田部井十郎重 堀口十郎良行
一之井三朗義時 堀江治部大輔宗忠
新田家臣 新田義貞に従軍の武士
船田長門守 綿内刑部 長浜六郎左衛門 田中三郎左衛門 由良新左衛門
畑六郎左衛門 亘理新左衛門 栗生左衛門顕友 篠塚伊賀守重広
山上七郎入道 山上六郎左衛門 由良越前守 石川備前守 難波備前守
杉原下総守 吉沢右京貞行 川越七郎左衛門 藤田四郎左衛門
飯野将監勝利 高田薩摩守 葦堀七郎 橋本三郎 岡田四郎左衛門
名張八郎 長澤入道寛山 青木五郎左衛門 藤田三郎左衛門
今泉左近 川越三郎 川波新左衛門 山内治内 中条道宋入道
中野藤治 吉江次郎入道 岡野谷五郎 小島倫氏 小幡藤内
岡野下野入道 大沢式部小輔 平沢八郎左衛門 金井主水佐 高山遠江守
善昌寺の前方の丘に新田氏一族 薮塚氏の砦があり薮塚基綱は
鎌倉攻めで負傷 新田の庄に帰国したが足利勢の中 薮塚には帰れず
近くの谷津山砦に住み その時代の五輪塔が砦跡に一基ある
この薮塚氏の末裔の方が砦跡に住んでる。
薮塚氏の先祖は新田義兼の娘と足利義純の嫡男
岩松時兼でその六男 朝兼が「薮墓」現在の薮塚に居住
「藪墓」の名前、墓を塚に変え 薮塚六朗朝兼を名乗る。
新田氏とたいへんゆかりのある町であるが
書物等の記述が少なく
栗生左衛門がこの地 新里村小林に潜んで帰農し
小林を名乗ったとされ子孫の方が居るとされるが
不明 調査中