「これが隠沼(こもりぬ)だよ」
 桜花散る弘前城址で、古い友人は眼下に広がる町を示してそう言った。
「えっ」
 信じがたかった。隠沼、幻の町である。それがこんなに簡単に見つかるはずがない。こんなにも当たり前に、あけっぴろげに、城から見下ろせる町が、隠沼であるはずがない。「弘前市民でこの町を見たことない人なんていないよ。隠沼は創作なんだ。めずらしくもないものを、太宰治がそう表現しただけなんだよ」
 すげえと思った。戦慄を覚えた。眼下に広がっているのは、どこにでもある、なんの変哲もない城下町である。太宰治はこれを隠沼と呼び、幻の町であると表現したのだ。まさしく天才だと思った。もとより、こんな町が隠沼であるはずがない。しかし、太宰本人にとっては、遠い過去にある幻の町でもあったのだろう。そこまでふくめて、彼は弘前の町を隠沼と呼んだのである。