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古典の和歌の技法に「本歌取り」という物があります。


昔の名作和歌や物語の一節をとってくることで、引用してきた文章に流れる空気を自分の和歌に加えるというもの。


三十一文字(みそひともじ)の中で少しでも自分の世界を表現しようと先人が作り上げた素晴らしい技法です。

例えばこの和歌、
たれかまた花たちばなに思ひ出でんわれも昔の人となりなば  

の花たちばなには、下の歌が本歌取りで引用されています。



さつきまつ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする

先の和歌を普通に読んでしまえば、「もし私が昔に生きていたならば、誰が花橘の香りをかいで、私を思い出してくれるだろう」となります。


これでも十分洒落た和歌なのですが、もし、本歌取りで引用されている文章も知っていたらいかがでしょう?


「五月になると漂ってくる橘の花の香りは、昔の人の袖の匂いに似ていて、故人をしばしば思い出させると言われているが、もし私が昔に生きた人ならば、この橘の香りで誰が私を思い出してくれるのでしょう」

本歌取りを加味して訳すなら、こんな感じになります。


本歌取りと知ってるか知らないかで、受ける印象、全然ちがくないですか?


本歌取りはもともと、相手も知っているのを前提に作られたものですが、芸術家の人たちは、思いのほか自分の作品にわかる人だけに伝わるようなメッセージを残しているように感じます。


例えば重松清さんの季節春に収録されている作品「よもぎ苦いか、しょっぱいか」は詩人佐藤春夫さんの「秋刀魚苦いかしょっぱいか」という詩からタイトルが取られています。


重松清さんのこの小説では、女で一つで自分を育てたくれた母親に対する子の気持ちが描かれていますが、そこには父の記述はありません。


男に捨てられ悲しみ、それでも男の懐かしさを忘れられない女の気持ちを描いた「秋刀魚苦いかしょっぱいか」からタイトルを引いてきていると分かれば、小説には描かれていなかった、家族の状況を推測することができます。


知ってるか知らないかで全然違いますよね。



それからもう一つ。


宝泉院の額縁の庭園も作者の意図が隠れている事で有名です。


photo:01



そのまま見ても素晴らしい景色なのですが、この庭は座敷の奥(上座)からみると、ちょうど家の柱が屏風の区切りにみえて、まるで屏風絵の様に庭が見える作りになっています。


知らなくてももちろん楽しめる庭ですが、知った上でみると全然違う味わいが見えてきます。



よく、芸術家は感じるものだと言われますし、僕もそういう側面は支持しているのですが、知っている事で見える美もあるんじゃないかなあって思います。

多分それは旅行でもなんでも同じこと。


下調べせず、何も知らない状態で行ったって十分楽しめます。


でも、もし旅行先の文化や歴史を知っていたらもっと楽しめるかもしれません。


そんな意味で、「知っておく」と言うことも大切なんだろうと思いました。