もうすぐ1年… | 高崎のお母さんと放射能

高崎のお母さんと放射能

群馬県高崎市に住む2児の母です。3月11日の震災から放射能について調べた事をメモがわりに日記につけていきたいと思います。

とうとう3月になってしまいました。
あの事故から1年・・・

あっ!と言う間でした。

何で私が放射能!放射能!って言うか・・・

ちょっとだけ・・・


3.11以前にあった知識と言えば「放射能はなんとなく危ない。年寄りは大丈夫、若い人は危険」「チェルノブイリでは子どもたちに大変な事が起こったらしい」
もーーーーそれだけです。

で、色々調べていくと・・・
白血病や癌の他に、障害を持ったり奇形の赤ちゃんがたくさん生まれた・・・と・・・

そこでお母さんは思ったわけです。
娘達が病気になるのも嫌だけど、娘の子どもたちが障害を持って生れてくるのも嫌だ!!って・・・

多くの方は、ピンとこないかもしれませんが・・・・

障害を持った子を育てるのってすんごく、すんごーーーーく大変なんです。


私には弟がいます。
彼は、知的障害を伴う脳性小児マヒです。
まぁ、今で言う「医療ミス」のせいなのですが・・・この話はおいといて・・・

弟の障害がわかった時、母は弟をおぶって、私の手を引いて線路に飛び込もうとした事が何度もありました。
幼かった私は、何故母が踏切の前で泣いているのかもわからなかったのですが・・・

今誰も死んでいないと言う事は母が、気持を切り替えてくれたのでしょう・・・w

きっとそこから母の戦いが始まったのだと思います。
弟は重度の知的障害を持っていますから、トイレや着替えなど簡単な身辺の自立にも、何度も、何カ月もかけてやっと・・・ボタンがかけられる・・・
そんな具合です。
養護学校に市バスで通うのにも・・・「○番か○番のバスに乗る」と何カ月もかかって教え、
毎日こっそり後をつけて、ちゃんとバスに乗れたか、そして・・・タクシーで後を追いかけちゃんと降りるべきバス停で降りられるか・・・
もーそれはそれは大変なんです(>_<)

私はそんな母の姿をずっと見てきました。

そして・・・障害者を弟に持つ姉として・・・
弟にかかりっきりの母にかまってもらえず、寂しい思いをした事・・・
幸い、私は「ジャイ子」みたいな女の子でしたからw弟の事で友達に何かを言われる事はありませんでしたが・・・
弟の事を書いた作文を読んだ小学校の先生から「不幸を売り物にするこずるい子」と言われ、
「大人って!大人って!!!!!」と憤った事もありました。
どうしても母の期待は健常な私に向き・・・・その期待の重さに我慢できず
「今まで放っておいたくせに!!クソババァ!」と悪態をついた事だって・・・wあーはずかしーw

弟は、可愛いです。だって彼の心の中には『善』しかないんです(。✪‿✪。)清らかなんです。魂が。
弟がいなければ知る事ができなかった事も沢山あります・・・・

が・・・

時々、弟が普通の男の子だったらどんな人生を私は送ってたろう・・・なんて考える事もあります。

できれば、私の娘には、母のような思いをさせたくない。
そして・・・娘の子どもたちにも・・・・私のような思いはさせたくない。

その思いだけで、1年間やってきたように思います。


娘達が健やかに成長して、いつの日か可愛い孫を見せてくれる日のために・・・・

お母さんは頑張るのです。