ギャングスタイルの大臣が「なかなか死ねない、死なせてもらえない」と発言し物議をかもしだしたことがあった。
批判がおおかったが、私はその通りだと思う。
勤務中に同じような状況で病棟から呼ばれた。
2名とも80-90歳代、いつもの状況は自分で食事はできず直接胃に栄養を入れている。
呼びかけても反応はない。肩をトントンと叩くと目はあけるが、目線は合わず、言葉もでない。
ウンチ・おしっこも介助が必要。
はっきり言えば、食べるも排泄するも人の手を借りなければ生きていけない状況である。
呼ばれた内容は、「呼吸状態が悪い、体に十分な酸素がいかないので診てほしい」
状況もよく似ている、両方とも痰がつまったようである。
違うのは、Aさんは痰が詰まったのは食事のあとで、数分前は血圧、脈拍、体温など特に問題ない人。
Bさんは、いつも痰が多く、心臓も悪く、足先の血管が詰まり壊死(くさっている)、おしっこがだんだんでなくなってきている。
さらに、大きな違いがAさんの胸とおなかの血管に大きな瘤(動脈瘤)があった。
Aさんは、1回目に呼ばれた時、痰も引けて体の酸素量は回復していた。
血圧が痰を吸引といって管を入れて引いたために180とたかかったくらいであった。
しかし、約40分後に病棟から「やはり呼吸状態がおかしい。」
再度呼ばれた時は、呼吸も心臓も止まっていた。
対応した看護師はオロオロしていた
「急変時(血圧や意識が落ちたり、酸素がうまく投与できない状態のとき)はどうするの」
「自然な形で様子見るです」
「ご家族呼びましょう。連絡するから」
この時の看護師の表情がすごく印象に残った。
とても、罪悪感がある表情であった。
ご家族が病棟に来る間にあまりにも急激にAさんの体調が悪化したので
家族に症状の経過を話すためにもCT検査をおこなった
検査が済んで、結果が出るまで担当の看護師表情は
『どうしよう、自分の対応で患者さんが死んでしまった』と言いたげであった。
検査の結果は、おなかの血管の瘤がつぶれて出血したことでなくなったのである。
状況として痰が詰まり、呼吸ができなくて血圧が上がり、血圧があがったために
おなかの動脈瘤が破裂して死亡したのである。
Bさんを診察に病棟にいったとき
看護師は懸命に痰を吸引(管をいれ痰を吸い取る)していた。
看護師のおかげで痰が気管からでてすぐに体の酸素量は上がってきて。
しかし、5分おきに痰を引いている状況である。
「いつもは、どのくらいの間隔で痰を引くの?」
「痰が多いので、私は1-2時間おきに痰を引きます。」
「結構な痰の量なんだね」
1-2時間おきに痰を引く-何を言いたいか、痰が多いが自分で出せず、看護師さんが機械で痰を引かなくてはならない。患者さんは自分の痰でおぼれる:窒息するのである。
痰をひくことを優先するので患者さんは機械で痰をひかれることで寝る時間が十分ないわけである。
痰を吸引しないで寝かせていると、患者は自分で痰で溺死するわけである。
「必死に痰引いているけど、体調が悪化した場合はどうする予定?」
「自然な形になっています。」
「そうなの、でも必死に痰ひくんだね」
「はい、私の時は心配なのでがんばって痰を引きます。」
「わかるけど、患者さんも機械で痰を取られるの苦しいよね。」
「そうなんですが、でも嫌なんです。」
「イヤって?」
「患者さんが亡くなるが・・・」
自然な形で看取るという方針でも、何にもするなというわけではない。
しかし、どこまでするかが曖昧な表現だと再認識した。
われわれ医者は「自然な形で看取るから」と患者と家族で決めたことを看護師に伝えるだけである。
実際に、病棟で患者の看護に当たるのは看護師なのである。
自然な形で経過をみると一言で言っても
現場の看護師たちは
看護師という使命感と「自分の時に患者がなくなった、何もできなかった」という罪悪感を払拭するかのように懸命に看護するのである。
その行為が患者を苦しめる可能性があったとしてもである。
看護師を批判しているのではない
「自然な形で経過をみる」という言葉は、曖昧である。
「苦しんで死にたくない」ということで「自然な形で経過みる」はずであっても
あらかじめ、患者自身が具体的な医療行為に対する希望を伝えてない限り
なかなか「楽には死ねない」のである。
もっと言うなら
「自然な形で経過みる」という言葉でなく
口からご飯がたべられなくなったら、点滴も胃ろう(管で胃に食事の投与)もしない。
薬で心臓を無理に動かさないで
呼吸状態が悪くなったら、人工呼吸器につながないで
おしっこが出なくなてっても、おしっこをだす薬を使わないで
自分で考え、話せるときにいろんなことを決めておかないと
いつまでたっても死ねないし、死なせてもらえないのが今の医療水準なのである。
