随筆 我らの勝利の大道 50 11/06/25

◆人間世紀の母の曲 ㊦

命を守る母の連帯から平和が!

地球に希望のコスモスの花園を

人材勝利の「青年学会」を共々に

 晴れ晴れと
  広布の夜明けを
    つくりたる
  偉大な母をば
    諸仏は守らむ

 「創価学会は永遠に民衆の側に立つ」――私たちが幾たびとなく確認してきた根本精神である。
 それを具体的な行動でいえば、「母を守る」「婦人部を大切にする」ということにほかならない。

     ◇

 ♪母よ わが母
  風雪に耐え
  悲しみの合掌を
   繰り返した母よ……

 先師・牧口常三郎先生と同時代を生き抜いた、ドイツの一人の母がいる。ケーテ・コルビッツ(一八六七~一九四五年)という画家である。

「同苦」の叫びから

 彼女は、第一次世界大戦で出征した最愛の子息を失った。第二次大戦では孫も戦死。彼女自身、晩年はナチスの弾圧を耐え抜きながら、創作活動に奮進した。
 子息の死後の制作では、「母と子」や「母たち」を表現した作品が多数ある。
 何ものかから我が子を守ろうと、大きな腕で抱きかかえる母。亡くなった子どもを抱きしめる母……。
 互いに身を寄せ合い、大きな腕を組んで守り合い、一つに団結した母たち。そのスクラムの間から子どもたちの顔も見える。
 女性が両腕の下に、いとけない子どもたちを守る絵には、「種子を粉にひくな」と題されている。
 わが子を守ってやりたかった!残酷な戦争になど行かせたくなかった!
 その叫びは、後継の種子である子どもたちを守り抜
かんとする、すべての母たちの願いとなる。
 「共通の悲しみこそ、相互の理解を深めるものだ」と彼女は言った。「同苦」の心が、母たちの生命尊厳の連帯の根拠ともなるのだ。
 中国の大文豪・魯迅も、彼女の作品に「慈母の愛」による戦いを見、大変に尊敬していた。
 コルビッツの作品は、母の叫びを凝結し、平和の願いで人びとを結びつける、平和の芸術となったのである。
――私の母は、終戦から二年後、長兄の戦死を知らされた。その死亡通知を握りしめ、部屋の隅で小さな背中を震わせていた毎の悲しみの姿は、決して忘れることはできない。
 私は思う。あの時、母はわが子を、その腕に抱きしめていたのだと。
 母の愛は、あまりにも深い。その母を苦しめ、悲しませ、子どもの未来を奪い去っていく、戦争をはじめ、あらゆる暴力に、私たちは断じて反対する。
 世界の平和、人類の幸福といっても、母を大切にし、心から感謝するところから始まると、私は叫ばずにはいられない。
 今、ドイツで、日本で、そして世界で、わが創価の女性たちが力強く平和のスクラムを広げている。その希望の大行進を、皆がまぶしく見つめている。

妙法の女性を讃う

 戦時中、特高警察に押収された牧口先生の「御義口伝」に、傍線が引かれた一節がある。
 「男女の中には別して女人を讃めたり女人を指して者と云うなり」(御書七七八ページ)との仰せである。
 日蓮大聖人は、〝法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福は量る可からず〝の経文の「者」の一字について、これは、妙法を受持した女性を讃えて言われたものであると断言されたのであった。
 私は先師の魂と共に、厳粛に拝して心肝に染めた。
 今から半世紀ほど前、アメリカ黒人の差別撤廃と民主主義を拡大した公民権運動においても、どれほど女性の力が重要であったか。
 私が対談した歴史学者のハーディング博士が述懐しておられた。
 「解放運動」は「草の根レベルの地域活動を拠り所にしていたために、女性たちが運動の中心的な存在となっていたのです」と。
 最前線で献身的に動き、人びとに語りかけ、我慢強く一人また一人と糾合していった原動力こそ、女性であった。この女性たちの、地に足のついた行動がなかったら、誰も集会や行進に集まらなかったし、何も進まなかったであろうと、博士は言われていた。

「体験」を語り共有

 さらにハーディング博士は、こう強調された。
 「新しい現実をもたらすためには〝私たちにはできるのだ〝と声を大にして励まし合うことが大切です」
 その一つの方法として、博士が具体的に提唱されて
いたのが「互いの体験に耳を傾けること」であった。
 それはなぜか。「体験を共有することによって、地域の中に励ましの輪を築くことができる」。さらに「自分の地域を超えた人びとにも、励ましを贈ることができる」からである。
 創価の母たちが、地域に根差し、顔の見える「グループ」という小さな人の輪を墓盤として、楽しく朗らかに、語らいを広げゆく意義は、まことに大きい。
 婦人部の五指針にも「地域と社会を大切に」「生き生きと体験を語る」とある。
 希望と確信の声を!誠実と思いやりの行動を!
 「無縁社会」と憂慮される冷たい社会に、信頼と尊敬の暖かき太陽の光を燦々と注ぐのだ。それは「仏縁」を結び、「仏の種子」を蒔いていく、尊き「仏の仕事」といってよい。

     ◇

 婦人部の五指針の一つに「後継の人材を伸ばす」と謳われている。
 恩師が第二代会長就任の一カ月後に、婦人部を結成され、その直後に男女青年部を結成されたのも、不思議なリズムである。母の大地からこそ、後継の青年部、未来部が羽ばたくのだ。

母の翼の下から!

 先月、支部結成五十周年を迎えた奈良で、記念の総会があった。嬉しいことに、九十八歳になられた、初代婦人部長の有馬のぶさんも元気に参加された。
 聖教新聞に掲載された、歴代の婦人部長と一緒の記念写真を、私も妻と心から懐かしく拝見した。
 この〝奈良広布の母〝の翼の下から、どれほど多くの後輩が巣立ってきたことか。今回、新女子部長に就任した吉井さんも奈良県の出身である。誇りは高い。
 支部結成の頃、有馬さんは自宅の塀に、心ない誹謗中傷の言葉をペンキで落書きされたことがあった。
 その時、私が送った手紙を、有馬さんは大切にしてくださっていたようだ。手紙には、大聖人が御自身の忍難弘通の足跡を記された報恩抄の御文を引いた。
 「いよいよ大難かさなる事・大風に大波の起るがごとし」(御書三二二ページ)
 たとえ嵐の黒雲が湧き起こるとも、創価の母が厳然としていれば、必ず勝利の夜明けがくる。
 その通りになった。
 世界でも「青年躍進」の方程式は同じである。
 大発展を続けるインドからも明るい話題が届いた。
 東部コルカタのある地区では、五十三人のメンバーの大半が婦人部であった。
 そこで、「わが地区を『青年学会』に!」と、皆で一大奮起。地域の青年を励まし、対話を重ねた。
 そして半年、実に二十一人もの男女青年部、二十人の未来部員が誕生したというのである。
 青年を励まし育む、母の慈愛こそが、「青年学会」の未来を開く揺藍となる。

震災を耐えた写真

 三月十一日、東日本大震災の大津波で、宮城県の気仙沼会館は二階まで浸水したが、館内に避難された方々は幸い守られた。
 震災から一週間、周囲を瓦礫に囲まれた会館の中に、水没を免れた一枚の写真額があったと伺った。
 それは、〝東北婦人部の花〝である、コスモスの写真であった。
 「コスモス」の語源は、「秩序」「飾り」「美しい」という意味のギリシャ語にあるという。花びらを行儀よく並べて凛と咲く様子から、そう呼ばれることになったようだ。
 想像を絶する被災のなかにあっても、世界中が驚く気高さと秩序を示して見せた、偉大な東北人の「心の美」を思わせる。
 一方で、コスモスは、台風などに見舞われても、倒された茎から根を出して、また立ち上がる強さを持つ花でもある。
 「負げでたまっか!」を合言葉に苦難を越えゆく、健気な東北婦人部の皆様の姿そのものではないか。
 どんな悲哀も胸中に包み込みながら、一切を笑顔に変えてきた「広布の母」の姿そのものではないか。
 満天の星が輝く宇宙のことも「コスモス」といい、同じ語源を持っている。
 私たちの生命も、また小宇宙(ミクロコスモス)である。一人ひとりが妙法という大宇宙(マクロコスモス)の妙なるリズムを響かせながら咲きゆく、希望のコスモスの花なのだ。
 その中で、世界に普遍の平和と幸福の象徴が、母の笑顔の花である。
 日蓮大聖人は、遠く離れた佐渡の千日尼に、こう仰せになられた。
 「我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ」(同一三一六ページ)
どんな穢土の現実にあろうと、妙法に生き抜く師弟は、最も美しく、最も正しい不二の心で、家庭に、地域に、社会に、希望の光を送り続けていける。
 創価の母たちは、この世で一番深い「異体同心」の仲で、わが足元から幸福の花を爛漫と咲かせゆくのだ。そして、宇宙(コスモス)の花である太陽の如く、人類の平和の未来を照らしていくのである。

 ♪母よ あなたの
  思想と聡明さで
  春を願う 地球の上に
  平安の楽符を
    奏でてほしい……

 今ほど、母の願いが、皆の心に深く響く時はない。
 今ほど、母の声が、皆に勇気を贈る時はない。
 母よ、強くあれ!
 尊き婦人部よ、幸あれ!
 和楽あれ!健康あれ!
 偉大なる「人間世紀の母」たち、万歳!

 不滅なる
  無上宝珠を
    抱きしめて
  この一生を
    勝利で飾れや