随筆 我らの勝利の大道 39 11/02/01


晴ればれと勝利の人生飾りゆけ

青年の心で新しき「2月闘争」を!


 晴ればれと
  勝利の人生
    飾りゆけ

 御書に曰く――
 「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」(一一六五ページ)
 仏法は、あくまでも「勝負」だ。仏とは「世雄」、すなわち堂々と社会で勝利しゆく英雄である。
 君よ、あなたよ!
 この御聖訓を、さらに深く命に刻んで生涯を送れ!
 私は、戸田先生の不二の弟子として、「悪口罵詈」「猶多怨嫉」のありとあらゆる中傷批判を受けながら、大盤石なる創価学会に仕上げた。
 いまだかつてない、無上光栄の民衆勝利の絆と絆を創り上げてきた。
 これこそ、「仏法勝負」の前進の姿だ。
 仏法者は断じて勝たねばならない。広宣流布のために、「不惜身命」と仰せの如く、わが身を惜しまず、断固と勝ち抜くのだ。
 永遠の生命から観れば、前世も生まれ合うたびに、我らは法のために戦い勝って、幾万もの福徳と強大な自身の栄えある殿堂を築き上げてきたのだ。
 そして今世もまた、一年ごとに堅固に強力に、わが身の荘厳なる勝利、勝利へと、共々に輝きわたっていくのだ。

障魔に負けるな!

 御本仏・日蓮大聖人は、喝破なされた。
 「法華経を持つ者は必ず成仏し候、故に第六天の魔王と申す三界の主此の経を持つ人をば強に嫉み候なり」(御書九二五ページ)
 人の幸福を嫉み、人びとの和楽を嫉み、正義の前進を嫉み、妨げようとする。これが魔の本性だ。正しければ正しいほど、偉大であれば偉大であるほど、魔性の嫉妬の標的とさ
れる。
 この魔の働きに負ければ、皆が不幸に引きずられるだけだ。「一生成仏」も「広宣流布」もできない。
 大聖人は、熾烈な攻防戦のなかで、若き南条時光に不退の魂を打ち込まれた。
 「殿もせめをとされさせ給うならば・するが(駿河)にせうせう信ずるやうなる者も・又信ぜんと・おも(思)ふらん人人も皆法華経をすつべし」(同一五三九ページ)
 いかに障魔の嵐が吹き荒れようとも、正義の青年が勇んで勝利の旗を打ち立てるならば、大切な同志を厳然と守ることができる。未来の希望の道を、洋々と開くことができるのだ。

先陣切って現場へ

 昭和二十七年(一九五二年)の一月のことである。
 満を持して、この時を待っていたように、戸田先生が宣言された。
 「いよいよ大作を出すか」
 先生の直々のお話で、私は蒲田支部の支部幹事の任命を受けた。
 わが師が会長就任式で「七十五万世帯の弘教」を誓願されてから約九カ月が経つものの、折伏は遅々として進まず、大きい支部でも、月に百世帯の拡大がやっとの有り様であった。
 〝このままでは何万年もかかってしまう〝と、先生の嘆きは深かった。沈滞した闇を破る、広宣流布の夜明けの光を、先生は二十四歳の青年に託されたのだ。
 青年は青年らしく、師弟共戦の旗を掲げ、勇猛果敢に、誠実一路で、先陣を切っていく行動以外にない。
 二月、私は、当時の組織の最前線である、小単位の「組」に突入した。それは、一軒また一軒と歩いて励ますことであり、一人また一人に会って語り合うことであった。大勢を集めて演説する必要などない。自分自身が一人のもとへ飛び込めばよい。そこが現場だ。
 私は東奔西走、自ら折伏し、皆の応援に入った。親身に悩みを聞き、個人指導を重ねた。大田区内はもちろん、多摩川を渡って、川崎にも通った。
 入会の新しい人や活動に馴染めぬ人もいた。しかし、誰もが偉大な使命を帯びた地涌の菩薩だと、信心の素晴らしさを訴え、「まず祈ろう、生き生きと体験を語ろう」と激励していった。

人材よ躍り立て!

 新しき友よ来れ!
 新しき人材よ躍り立て!
 自分が縁した一人また一人が、必ずや戸田門下となり、喜び勇んで妙法流布という聖業に加わることを祈り念じながら――。
 そこから、当時、百近くあったすべての組に、澎湃と人材が涌出していった。
 やがて、二月を戦い切った時、わが蒲田支部は、一支部で月間「二百一世帯」という未曾有の折伏を達成したのである。
 学会の歴史において、これこそ、青年が大先頭に躍り出て、壮年・婦人と一体で戦い、実質的に広布拡大を牽引した初陣であったといってよい。
 そして今再び、創立百周年へ向かって、本門の青年学会の初陣が始まった。
 皆で青年を励まし、皆が青年の心で、新たな一歩前進に挑みたい。
 昨秋、お会いしたマサチューセッツ大学ボストン校のモトリー学長は、ご自分のことを快活に「ヤング・マン――青年」と呼んでおられる。それはなぜか。
 「いつまでも、困難の大きさを考える前に挑戦するエネルギー、つまり青年のエネルギーを持ち続けたいからです」と。

永遠の前進の軌道

 もしも、この「二月闘争」の目覚ましい勝利が、その時だけで終わっていれば、本当の意味で「壁を破った」とは言えなかった。
 しかし、蒲田支部は、その後も二百世帯を突破し続けた。「三月闘争」も勝った。
 「四月闘争」も勝った。
 そして、戸田先生の会長就任一周年の五月には、大歓喜の勢いで初めて三百世帯に到達し、十一月には、二月から倍増となる四百世帯を突破したのである。
 この蒲田の大躍進に負けじと、他の支部も次々に壁を破った。神奈川を地盤にした鶴見支部もやがて月間三百世帯へ飛躍し、さらにほとんどの支部も悠々と百世帯、百五十世帯を超えるようになっていった。そこには、東北の仙台支部と関西の大阪支部も、新たな力として隆々と台頭してきたのである。
 なお、勢いに乗り遅れた文京支部が、支部長代理となった私と共に、「前進!」を合言葉に、最強の組織へと一変したのは、この翌年のことであった。
 ともあれ、青年の私は、「二月闘争」を起点として、全学会の前進・勝利の方程式を作った。
 表面的な方法論ではない。学会は「一人立つ信心」そして「師弟共戦の信心」で勝つ、という永遠の軌道を固めたのである。

     ◇

 今、世界の同志も、「二月闘争」の精神を源流として、広宣流布の拡大を勇み進めている。ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビアなど南米の友が、最前線のブロックに焦点を当てて、歓喜の連帯を広げている様子も嬉しい限りだ。
 つい先日、懐かしい北欧ノルウェーの婦人部のリーダーからも、意気軒昂の報告をいただいた。
 昨年の御本尊授与は過去最高だったという喜びに続き、「本年は倍以上の結果を出そうと皆で話し合っております」との力強い決意が綴られていた。
 私と妻は、厳寒の中、活躍される友の苦労を偲びつつ、即座に伝言を送った。
 「メンバーの方々がたくさんの功徳を受けられますよう、またメンバーが少しでも多くなりますよう、題目を送っております」と。

「辛抱強くあれ」

 日本中、世界中のいずこにあっても、広宣流布の拡大は、血の滲むような、わが友の忍耐と執念の奮闘によって勝ち取られてきた。
 思えば、ノルウェーの大彫刻家ビーゲランが、先達のロダンから学び、受け継いだ信条も「辛抱強くあれ」ということであった。
 かつて(一九六四年十月)、私がノルウェーを訪問した折、草創の同志と、彼の力作群が飾られたオスロ市内のフログネル公園を視察したことが思い出される。
 このビーゲランの信念は、さらに「唯々強い意志、聡明で決意深いこと」「唯々努力すること」「驕ることなくひたすらその道に尽くすこと」であった。
 学会精神と深く通ずる。
 油断なく、手を抜かず、愚直なまでに全力を尽くし抜いていく以外にない。そこにこそ、眼前の勝敗を超えて、深い永続的な勝利の基盤が築かれゆくのだ。
 戸田先生は言われた。
 「戦いの勝利の原理は『勇気』と『忍耐』と『智慧』である」と。