2011.01.26 SP 

第36回 「SGIの日」記念提言

  「轟け! 創造的生命の凱歌」〔上〕

                  創価学会インタナショナル会長  池田 大作

 21世紀の“第2の10年”の開幕の年にあたり、所感の一端を述べておきたいと思います。

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◆広がる「無縁社会」
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 さて昨年は、高齢社会を迎えている現代の日本を象徴するようなショッキングな“事件”が、世の中を震憾(しんかん)させました。いわゆる「消えた高齢者」(注1)といわれるもので、東京・足立区の111歳の男性の事例を皮切りに、調査を進めていくと、本来祝福されるはずの数多くの100歳以上の人々が、行方不明になっている事実が次々に判明。公的記録上は生存しているにもかかわらず、生死や所在地が分からないといった状況は、それらの人々の年金を遺族が長年にわたって不正受給していた事例もあり、長寿社会・日本の思わぬ落とし穴として、人々に衝撃を与えました。

 人間関係の砂漠化というか液状化というか、「無縁社会」などと評されるように、ともかく凍り付くような、寒々とした心象(しんしょう)風景であります。仏教の“縁起論(えんぎろん)”が教えているように、なべて人間同士のあるいは人間と環境とのいわば“結縁(けちえん)”から成り立っている我々の日常生活の仕組みの脆弱(ぜいじゃく)さを痛感させる、文字通りの“事件”でした。家族や地域とのつながりが薄くなり、社会での孤立感が深まる中で、先行きを悲観視する若い世代や中高年も決して少なくありません。

 「無縁」とは「コミュニケーション不全」ということでもあります。「無縁社会」とは、コミュニケーションの最強、最良の武器であった言葉が、十全(じゅうぜん)にはたらかず、機能不全に陥った社会にほかなりません。その背景には、厳しい経済状況や核家族化など多くの問題が潜んでいますが、そこに、情報化社会の急速な進展があることは否定できない。いわゆる情報化の負の側面
── 情報量の増大とは裏腹の言葉の空洞化、本来の重みや深みを失い浮遊する符丁(ふちょう)のような軽量化、そこから必然的にもたらされる、人間を人間たらしむる対話力の衰退であります。

 哲学者のアルベール・ジャカールは、情報科学の意義を過不足なく評価した上で、情報科学がもたらすのは「急速冷凍したコミュニケーションでしかありません。沈黙と言葉からなる真の対話においては、創造性のある驚きが自然に生まれます。しかし、情報科学によってそれを引き起こすことは不可能」(吉沢弘之訳『世界を知るためのささやかな哲学』徳間書店)と。「急速冷凍」とは、言い得て妙であります。

 もちろん、情報科学の発達が一面で、人間同士の新しいつながりの輪を広げる可能性を持っていることは事実です。

 しかし、その情報科学を介したつながりが“匿名性”“非人称性”を特徴とするものと化せば、そこには“顔”がなくなってしまう。無機質かつニュートラルで、顔と顔、魂と魂との触発作業からのみ生まれる新鮮な驚き、肉感を伴う手応えや充足感とは縁遠い世界であります。

 こうした時流にあって、特筆しておきたいことは、私どもSGIが世界的に展開している仏法対話、特に座談会運動の有する精神史における意義付けです。

 私どもが日々、何千ヵ所、何万ヵ所、否、何十万ヵ所で行っている“顔”を突き合わせての、双方向の語らい ──
それは、まさしく「沈黙と言葉からなる真の対話」であります。

 言葉が椙手の心に届いた時の喜び、充足感。届かなかった時の戸惑い、もどかしさ、そして沈黙。沈黙の中で、懸命に新たな言葉を探す忍耐と苦闘。探し当てた言葉がようやく相手に届いた時のさらなる充足感
── こうした倦(う)むことなき対話の織りなすグラデーション(徐々に変化すること)こそ、心を鍛え魂を磨きあげていく「溶鉱炉」なのであります。「急速冷凍」とは対極に位置する醸成(じょうせい)、錬成(れんせい)の場なのであります。

 そうした「言葉の海」「対話の海」の中でのみ、人間は人間に成ることができる。逆に言えば、ソクラテスが「言論嫌い」(ミソロゴス)は「人間嫌い」(ミサントローポス)に通ずるとしたように、そこを避けていては、真の人間へと成熟していくことはできない。だからこそジョン・デューイ協会のラリー・ヒックマン元会長は、私とのてい談で、人々が集い語るSGIの拠点を「地域社会の絆を深める施設」であり、成熟した市民でデューイが言うところの「公衆」を生みだす母体と位置付けておられるのであります(「人間教育への新しき潮流」、『灯台』2010年11月号所収)。

 地道で目立たなくても、否それ故に、私どもの対話運動は、そうした空洞化した言葉を蘇(よみがえ)らせる文明史的意義を孕(はら)んでいることを誇りとしていきたい。

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◆言葉の軽量化をどう乗り越えるか
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 言葉の空洞化、軽量化といえば、昨年“ハーバード白熱(はくねつ)教室”なるものが、話題を呼びました。

 いうまでもなく、ハーバード大学といえば、アメリカ最高峰の学府の一つですが、そこでマイケル・サンデル教授の政治哲学の講義が人気を集め、史上最多の聴講者を記録し続けているという。講義といっても一方的なものではなく、身近な話題を取り上げ、教授が音頭をとって学生たちの意見を募(つの)りながら、つまり双方向の言葉のやりとりを通して、問題の正否を吟味していく。まさにソクラテス的対話を彷彿(ほうふつ)させるもので、日本でも評判になり、テレビや紙誌が何回となく取り上げ、サンデル教授も来日して、日本版「白熱教室」なども試みられた。また著書(『これからの「正義」の話をしよう』)は、この種の本としては、異例のベストセラーを続けているという。

 こうした話題に接するにつけ、私は感慨を新たにします。

 というのも昨年の提言でも、ユゴーの『レ・ミゼラブル』の冒頭、ミリエル司教と老ジャコビニスト(過激な革命主義者)が、正反対の立場から「正義」を巡(めぐ)って火の出るような論争をしているシーンに触れました。それを通して私は、古来“正義とは何か”ということが難問中の難問であることを訴えました。

 すなわち、こうした難問は安易に、軽々(けいけい)に取り扱ってはならず、もしその点をなおざりにすると、正義と正義がぶつかり合い、至る所でハレーションを起こして正義という言葉の空洞化、軽量化、インフレ現象を招き寄せてしまう。20世紀が戦争と革命による殺戮(さつりく)の時代であった大きな要因は、この正義のインフレ現象にあったのではないか。「白熱教室」のような試みがブームを呼ぶ背景には、そうしたことへの自省、自戒が、強くはたらいているといえないでしょうか。

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◆何のため生きるか
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 ここで、若き日に愛読したアンリ・ベルクソンの哲学を援用(えんよう)しながら、我々の標榜(ひょうぼう)している人間主義というものの輪郭を、もう一歩明らかにしてみたい。

 けだしベルクソンほど言葉のインフレ現象、軽さ、換言すれば言語の虚構性を鋭く抉(えぐ)り、哲学者のウラジミール・ジャンケレヴィッチが名著『アンリ・ベルクソン』(阿部一智・桑田禮彰訳、新評論)で「頭で歩いていた哲学を本来の姿にもどした」と的確に評したように、ロゴス(言葉や論理)中心主義を主流にしてきた西洋哲学の偏向に、先駆的かつ包括的な警鐘(けいしょう)を鳴らしていた人も稀(まれ)でしょう。そして、そのスタンスをもたらしたのは、ベルクソン哲学では「人間のための哲学」という軸足(じくあし)が決してぶれることはなかったためであると、私は信じております。

 ベルクソンといえば、悩み多き19歳の夏、友人から恩師(戸田城聖第2代会長)との運命的な出会いとなる会合に誘われた際、生命の哲学に関するものだと聞き、とっさに「ベルクソンですか」と問うたのも、懐かしい思い出です。

 ベルクソンは、まず哲学する上で手放してはならない言葉として、生物学の「生きることが第一(プリムス・ヴィヴェレ)」(河野与一訳『思想と動くもの』岩波書店)をあげ、自らの哲学のモチベーション(動機づけ)をこう語っています。「私たち人間はどこからやってきたのでしょうか。私たち人間とは何なのでしょうか。私たち人間はどこへゆくのでしょうか。これらの問題こそまさに根本的な問題であります。もし、私たちがもろもろの哲学体系にたよらないで哲学をするならば、たちどころにこれらの問題に直面するはずであります」(池辺義教訳「意識と生命」、『ベルクソン』中央公論社所収)と。

 このモチベーションは、人間が善く生きようとする限り、誰もが、いつかは、どこかで直面せざるを得ない万人が共有する原初(げんしょ)の問いかけであります。ところが「もろもろの哲学体系」は、枝葉末節にこだわるあまり、ややもすると根幹であるこの原初の問いかけを忘失しがちである。まさに仏教で説く“毒矢(どくや)の譬え”(注2)の戒めと瓜二つであります。つまり、ベルクソンにあっては、“何のための哲学か”という人間主義のスタンスは、決してぶれることはなかった。このことは、科学や宗教の場合も同断(どうだん)であります。

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◆若き日の即興詩
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 私は、恩師との初の語らいの感動を、即興詩に託しました。

 旅びとよ
 いずこより来り
 いずこへ往かんとするか

 月は 沈みぬ
 日 いまだ昇らず
 夜明け前の混沌(カオス)に
 光 もとめて
 われ 進みゆく

 心の 暗雲をはらわんと
 嵐に動かぬ大樹求めて
 われ 地より湧き出でんとするか

 今思い返すと、不思議な符合であります。その時、私の念頭にベルクソンがあったわけではありませんが、ともかく、人間であることの条件ともいうべき原初の問いかけに、常にフィードバック(還元{かんげん})し続ける、その意味では哲学らしからぬ哲学ともいえるベルクソンの哲学に想像以上に親近感を覚えていたのかもしれません。事実、その宗教観などにスポットを当ててみると、彼の意図を超えて(というのも、ここでは詳述しませんが、ベルクソンの仏教とくに大乗仏教への理解は、十全ではないからです)驚くほど仏法を基調にした人間主義と波長を一(いつ)にしております。

 私どもが唱道(しょうどう)する人間主義は、仏法を基調にする故に「法に依(よ)って人に依らざれ」(涅槃経)を規範にするが、化導(けどう)、流通(るつう)の面では、仏典に「法
自(おのずか)ら弘まらず人・法を弘むる故に人法(にんぽう)ともに尊し」(御書856ページ)とあるように、あくまで「人」に軸足を置きます。

 「法」といっても固定的なものではなく、「人」に体得、体現されて初めて、現実に生々脈動(せいせいみゃくどう)しゆくからです。

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◆「人格的人間」への飛躍を促す思想
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 それと軌を一(いつ)にして、ベルクソンの時間観、生命観は、「人」に即した「動くもの」のダイナミズムそのものであります。主要著作に沿っていえば、ある時は“純粋持続”(『時間と自由』)であり、ある時は“緊張”(『物質と記憶』)であり、ある時は“生の躍動(エラン・ヴィタール)”(『創造的進化』)であり、最後の主著『道徳と宗教の二つの源泉』では、「動的宗教」における“愛の躍動(エラン・ダムール)”へと辿(たど)りつく。

 “エラン・ヴィタール”までは、いわば「生物的人間」の進化を追ったものだが、“エラン・ダムール”は、「人格的人間」への上昇、飛躍であり、ある種の神秘的体験によって触発されたその体現者にして初めて、閉じた世界から、人類社会、人類愛への飛躍も可
能となる、とされます。

 いうところの神秘的体験とは、神懸(かみが)かり的ないかがわしさとは全く無縁の、知力を尽くし抜いた果てに作動し、かつ「数ある障害をものともせずに知性を前方へ駆りやる力」としての情動(じょうどう)であり、魂の「深部が震憾(しんかん)される」情動であります(森口美都男訳「道徳と宗教の二つの源泉」、前掲『ベルクソン』所収)。

 その体現者を宗教的創造者といっても道徳的英雄といってもいい、この精神界の巨人は、「その人の行動自体が充実しているだけではなく、他人の行動をも充実させることができるような人であり、その人の行動自体が高邁(こうまい)であるだけではなく、高邁という炉床(かまど)に火をつけ燃えあがらせることができるような人」(前掲「意識と生命」)であり、「(彼にとって)真に大切な問題は、まず自ら模範を示して、人類を根本から造り変えることである。この目的は、理論上は根源に存在していたはずのもの、すなわち神的な人間性がついに存在するに至ってはじめて達せられうるであろう」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。

 このような魅力的な、磁力を秘めた(導く人の)魂が“招き”となって、(継ぎゆく人々の)魂の“憧れ”を引き寄せ、相呼応(あいこおう)しながら、新たなる精神的地平が豁然(かつぜん)と拓(ひら)けゆく
── 例えばネルーが、ガンジーの出現が長年の植民地支配下で萎縮(いしゅく)していたインドの人々の心から「どすぐろい恐怖の衣」をはぎ取り、「民衆の心の持ち方を一変させた」と評したように(辻直四郎・飯塚浩二・蝋山芳郎訳『インドの発見
下』岩波書店、現代表記に改めた)、宗教であれ思想であれ、精神性の伝播(でんぱ)、継承とはこのようにしか成し得ないであろう究極の姿をかたどっているのではないでしょうか。

 そして、私にとって、恩師・戸田第2代会長こそ、まさしくこのような精神的巨人であり、無二の師表(しひょう)でした。「仏とは生命なり」との比類なき獄中体験をベルクソンのいう「創造的躍動力(エラン・クレアトゥール)」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)とし、仏法流布に生涯を捧げた稀有(けう)の師匠に出会い、仕え、その精神を継承し得たことは、何ものにも替え難い私の宝であり、誇りです。私が「師弟」の肝要なることを、折あるごとに訴え続ける所以(ゆえん)もここにあります。また、その伝播、継承を確信する故に、ライフワークである小説『人間革命』のテーマを「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」としたのであります。

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◆言語の固定化が招く精神の怠惰
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 さて、言葉のインフレ現象、軽さについていえば、それを生み出す言葉への過信、軽信(けいしん)に対して、ベルクソンは警戒心を隠そうともしません。いわく、「私が真の哲学的方法に眼を開かれたのは、内的生活のなかに初めて経験の領域を見いだした後、言葉による解決を投げ棄てた日である」(前掲『思想と動くもの』)と。

 それは、期せずして竜樹(りゅうじゅ)が、縁起の法は「ことばの虚構を超越し、至福なるもの」(「中論」梶山雄一訳)と述べているような、仏教本来の「無記(むき)」の知見(ちけん)、言語観を想起させます。

 なぜ警戒心を露(あらわ)にするかといえば、ベルクソンにとって「経験の領域」つまり真のリアリティーである「実在とは動いているもの、いなむしろ動きそのもの」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)であり、創造的生命の間断なき変化、変化の連続しゆく流れはひとときも止まることはない。その動きを感知するには、ベルクソンにも通暁(つうぎょう)し、私も生前お会いしたことのある小林秀雄氏のいう「未知な事物(じぶつ)に衝突していて、既知の言葉を警戒」しながら正しい言葉を選び取る「精神の弾性(だんせい)」(『現代日本文学全集42
小林秀雄集』筑摩書房、現代表記に改めた)が欠かせない。ところが、言葉というものは、往々にしてそうした間断なき流れを断ち切り、言語によって固定化させ、「変化についてのスナップ・ショットでしかない」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)ものを、実在そのものと錯覚させてしまう。

 いわゆる「時間の空間化」であって、彼はその象徴的な事例として、“飛んでいる矢は止まっている”あるいは“アキレスは亀に追いつけぬ”といった、古代ギリシャの哲人ゼノンのパラドックス(注3)を執拗に論難(ろんなん)してやまない。なぜなら、言語による固定化がもたらす過信、軽信は、つまるところ精神の弛緩(しかん)状態
── 知的怠惰(たいだ)、固定観念や偏見、ドグマ(教条{きょうじょう})の温床になってしまうからです。先に論じてきた正義のインフレ現象(イデオロギーであれ、宗教であれ、ナショナリズムであれ)などは、その典型的な症例といえるでしょう。それは、労せずして、手っ取り早く結論を得ようとする安易さ、弱さや怠け心へと、人間を誘い込んでしまうのであります。

 私は、かつてその危険性を指摘し、「世間の主義主張には、どうしても(この)“型にはめる”という働きがともなう。仏法にもとづくわれわれの主張は、この定型化ということには重きをおかない。時代と状況の実質把握のほうに重点をおき、そこからどうあるべきかを観察していく」と述べましたが、「定型化」とは「固定化」「空間化」ということと、ほぼ同義語であります。

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◆安逸や停滞を排す
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 つまり、仏法的発想と踵(きびす)を接するかの如く、ベルクソンの哲学というか気質ほど、人間の弱さや怠け心と氷炭相容(ひょうたん
あいい)れぬものはないのであります。だからこそ、彼は「緊張、集中、これこそ私が、新しい問題一つひとつに対してまったく新しい努力を精神から要求する方法の特徴を述べる言葉である」「私は安易さを排斥する。私は困難を惹(ひ)き起こすような一種の考え方を推奨する。私はなによりも努力を尊重する」(前掲『思想と動くもの』)等々と、安逸や停滞と決別し、ひたすら前を見据え、善く生きよう、強く生きようとする人間の能動的な意欲を鼓舞してやまないのであります。

 緊張、集中、努力 ── これら心の“張り”は、「動くもの」を感じ取り、思考の硬直化を排しながら、時々刻々と変転してやまない「時代と状況の実質把握」を可能ならしむるための、いってみれば精神的な“動体視力”を養い鍛える上で欠かすことができない要因であります。

 この“張り”をベルクソンは「確乎(かっこ)として揺るがぬ知的健康」として、次のように精妙(せいみょう)に述べております。「行動への熱意、環境に適応し、仕損じても挫けずに再興する力、嫋(しなや)かさと結びついた堅忍(けんにん)、可能と不可能とを見分ける予言者の識別力、紛糾(ふんきゅう)した事態を単純によって克服する精神など」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。

 そしてこれらが、昨年の提言で私が簡勁(かんけい)に指摘しておいた、仏典の「強る心」「丈夫の心」と深部で響き合っていること、申すまでもありません。

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◆自他ともの喜びを創造しゆく菩薩道
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 「強る心」「丈夫の心」に限界はありえない。仏教に基づく人間主義の真髄は、人間の精神的諸力(しょりき)のぎりぎりまでの行使、より正確にいえば無限の行使を要請し、人間であればそれが可能であると促している点にあります。それほどまでに徹して人間の可能性を信じ、そこに賭けている。

 これは、ファウストに象徴される、いわゆる欲望を肥大化させた近代人の傲慢(ごうまん)とは似て非なるものであります。宇宙根源の法に帰依(きえ)しているという確信から生まれる自覚であり、自負、矜持(きょうじ)であります。

 なぜ自覚、衿持かといえば、仏教においては、宗教が人間の精神的バックボーンを成すのは当然のこととして、なおかつ「精神活動が宗教を包含するのであって、それが宗教の中に包含されるのではない」(ジュール・ミシュレ『人類の聖書』大野一道訳、藤原書店)という「人間のための宗教」という立ち位置を、厳しく自戒しているからです。

 ここにこそ「人間のための宗教」と「宗教のための人間」とを分かつ分水嶺(ぶんすいれい)があり、それをはき違えると、宗教は人間の弱さや醜(みにく)さ、愚かさや怠け心を誘発する“お縋(すが)り信仰”へと堕落していってしまう。

 そうではなく、私どもの信仰は、人間の無限の可能性への挑戦を促し、鼓舞する真の「人間のための宗教」であります。したがって、精神的諸力の行使に終着点はありえない。「今」は、常に次なるステップへの出発点なのであります。「さあこれからだ!」という呼びかけは、人間主義の実践躬行(じっせんきゅうこう)を促す“起床ラッパ”なのであります。それは、現実社会の庶民群の中で“自他ともの喜び”を創造しゆく菩薩道へと展転(てんでん)していく。

 人間力の無限の行使の要請に応えんとするところ、そこに拓(ひら)けるのは、無限の力、無限の希望、無限の勇気、無限の知恵等々、限りなき、洋々たる前途であり、どんなに紆余曲折(うよきょくせつ)、試行錯誤があろうと、前進また前進の勇者を待つのは、仏典に「歓喜の中の大歓喜」(御書788ページ)と記された創造的生命の凱歌であるというのが、仏法に基づく人間主義の希望の哲学であります。

 ベルクソン的オプティミズム、哲人が「経験の事実に即した最善観(オプティミズム)」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)とした達観(たっかん)も、その無限性と根(ね)を通じております。

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◆万人に開かれた自己完成の王道
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 「努力によって、人は自分の持っている以上のものを自分のなかから引きだし、自分自身を自分より以上に高めることができるのです」(以下、前掲「意識と生命」)といった、精神の力の可能性、蓋然性(がいぜんせい)に対する驚くべき期待、評価は、精神世界の無限性への不抜(ふばつ)の確信あってのものでしょう。その努力の行き着くところは「歓喜」であり「歓喜はいつも生命が成功したこと、生命が地歩(ちほ)を占めたこと、生命が勝利を得たことを告げています。そうして、大きな歓喜なるものには勝鬨(かちどき)のひびきがあります」「歓喜のあるところにはどこにも、創造があることがわかります。創造が豊かであればあるほど、歓喜は深いのであります」と。

 のみならず、こうした無限性への志向は、古来人間に自らの有限性を自覚させ、宗教の世界へと目を向けさせる“死”という最大のアポリア(難問)にも、大胆かつ慎重に挑んでゆきます。なぜ大胆かといえば、「意識にとって来世があるならば、それを探求する手段が私たちに発見できない理由はありません」というスタンスは、死後の世界は神の宰領(さいりょう)するものとするキリスト教的伝統とは異質のものであり、ジャンケレヴィッチが「人間の神格化」(前掲『アンリ・ベルクソン』)と名付けた、精神の力の無限性の証(あか)しともいえましょう。

 ベルクソンは、そうした精神の無限性への追求を、特殊な能力の人特有のものとするのではなく、精神的巨人の先導により、万人に開かれた自己完成への王道としております。

 彼は「ありとあらゆる人間がどんなときにでも追求しうる創造にこそ、人間の生命の存在理由がある」として、こう述べています。
「その創造とは自己による自己の創造であり、少しのものからたくさんのものを引きだし、無から何ものかを引きだして、世界のなかにある豊かさにたえず何ものかを付け加える努力によって、人格を成長させること」(前掲「意識と生命」)と。

 言葉こそ違え、「一切衆生・皆成仏道(かいじょうぶつどう)」(御書557ページ)と説く、仏教の平等大慧(びょうどうだいえ)の自己完成への道と見事に符合しているとはいえないでしょうか。

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◆教条が生む罠を徹して打ち破る
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 とはいえ、その無限性の追求は、“人神(じんしん)”(ドストエフスキー)の思い上がりとは対照的に、あくまで慎重を極める経験主義者の流儀であります。いわく「もし霊魂問題というものが本当にあるとすれば、この問題は経験に即して述べられねばならぬ」「またその解決も経験に即して、前進的に、しかもどこまで行ってもただ部分的に得られるにすぎない」(前掲「道徳と宗教の二つの源泉」)と。

 これは「文証・理証・現証(もんしょう・りしょう・げんしょう)」という経験世界の「証拠」を重視する仏教の法理(ほうり)とも重なっており、私は、卓越した数学者でもあった恩師が、生前よく語っていた「科学が進歩すればするほど、仏法の法理の正しさが証明される」との言葉を想起(そうき)しました。ともあれ生命の永遠性を垣間見(かいま
み)ながらも、ベルクソンはあらゆるドグマから無縁の人でありました。

 「今世(こんぜ)」と・「来世(らいせ)」、「現世(げんせ)」と「生及びその前・死及びその後」とを分かつことのできない生命の無限の連続と捉えるこうしたアプローチを、周知のように仏法では「起は是れ法性(ほっしょう)の起・滅は是れ法性の滅」(天台智ギ(★豈+頁)「摩詞止観」)と説いております。

 起=生・出現といい、滅=死・消滅といっても、法性という生命の本体が、縁に触れて生滅流転(しょうめつるてん)しているのだ、と。私は、かつてハーバード大学で講演した際(1993年9月、「21世紀文明と大乗仏教」)、この法理にのっとって「生も歓喜、死も歓喜」「生も遊楽、死も遊楽」という仏法の生死観を訴え、多くの賛同と共感の声をいただきました。

 その観点からも、ベルクソンのオプティミズム、生命観には、強い親近感を抱いており、なおかつ宗教がドグマの“罠”に陥らぬためには、こうした経験主義的アプローチとの対話を絶対に欠かしてはならない。これは、アーノルド・J・トインビー博士との対談でも痛感した点であります。

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◆開かれた宗教を志向した精神性
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 精神の力の無限性を信じ、追求しゆくベルクソン的オプティミズムは、必然的に人類愛へと至る開かれた魂、開かれた社会、開かれた道徳、開かれた宗教(動的宗教)を志向してゆきます。誰の目にも明らかなことは、現代の精神世界が、ベルクソン的世界とは正反対の閉ざされた精神空間に覆(おお)い尽くされているという事実ではないでしょうか。ペシミスティック(悲観主義的)で閉塞的な空間に逼塞(ひっそく)させられた人間の魂は、「自分自身を自分より以上に高める」どころか、暗雲が立ち込めるなか、限りなき矮小化(わいしょうか)を余儀なくされているといってよい。耳をそばだててみれば、そこから生じる苦悶の呻(うめ)き声は、至る所から聞き取ることができます。

 それだけに、現代の風潮とは対蹠的(たいしょてき)なベルクソン的な志向が、ことのほか尊いものに思えてならない。ベルクソン的オプティミズムは、行き詰まり、海図なき航海を続けている近代文明を、大きく軌道修正させてゆく“方向舵(ほうこうだ)”たりうるのではないでしょうか。それはまた、人間主義を標榜(ひょうぼう)する我々が、等しく共有する志向性なのであります。

 それを実現させうるか否かは、ほかでもない人間の自覚と責任にかかっております。ベルクソンは『道徳と宗教の二つの源泉』(前掲書)を、こう締めくくっております。

 「人類は今、自らのなしとげた進歩の重圧に半ば打ちひしがれて呻いている。しかも、人類の将来が一にかかって人類目身にあることが、充分に自覚されていない。まず、今後とも生き続ける意志があるのかどうか、それを確かめる責任は人類にある。次にまた、人類はただ生きているというだけでよいのか、それともそのうえさらに、神々を産み出す機関(マシーヌ)と言うべき宇宙本来の職分が
── 言うことを聴かぬこの地球上においても ──
成就されるために必要な努力を惜しまぬ意志があるのかどうか、それを問うのもほかならぬ人類の責任なのである」と。

 「神々を産み出す機関と言うべき宇宙本来の職分」の成就とは、いささか謎めいた形容ですが、端的(たんてき)にいって、生命の進化の過程で人間にのみ許された創造的生命の十全(じゅうぜん)な開花すなわち、「神秘的」体験によって魂を震憾させられた精神的巨人によって触発、先導され、「根本から造り変え」られた人間群による人類愛という地平への“愛の躍動”(エラン・ダムール)といってよいでしょう。

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◆SGlの運動が目指す歴史的地平
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 私がモスクワ大学のヴィクトル・A・サドーヴニチイ総長との対談集(第1集)を『新しき人類を新しき世界を』と銘打ったのも、「新しき人類による新しき世界」を構想していたからです。

 その主役は、あくまで人間であります。それも社会機構や組織の中の一員に矮小化され、意気阻喪(いきそそう)した人間ではなく、自己の無限の可能性を信じ、努力と挑戦のなか、自由意志の促すままに、ひたすら自己拡大を続けゆく創造的人間こそ、主役であるにふさわしい。そのほかの組織や制度、体制などの外的要因にのみ拘(こだわ)っていると、肝心の人間が、端役(はやく)の端役に追いやられてしまう。それがどんな悲劇を生んだかは、20世紀の苦い教訓であります。

 生き続ける意志はあるのか! 単に生き続けるだけでなく、善く生きんとする意志はあるのか! ──
哲人の人類への呼びかけは、「個々の人間の精神が真に更新されなくては社会にもまた更新はありえない」「個々の人間に、おのれの魂の救済にこそ世界の救済はあると気づかせるべきなのだ」(C・G・ユング『現在と未来』松代洋一編訳、平凡社)といった賢人の言葉と呼応(こおう)しながら、「新しき人類」の誕生を待ち望んでいるように思えてなりません。

 こうした哲人、賢人の指し示す正道(せいどう)を歩み、事実の上で仏教史上に輝く世界的広がりを成し遂げてきたのが、まさしく我々の仏法を基調にした人間主義の運動なのであります。

 故に、今後とも着実に水嵩(みずかさ)を増していくにちがいないSGI運動は、文明転換をもたらす“方向舵”として、時とともに輝きを放ち、スポットを浴びていくことは必定であろうと、私は確信しております。


       (㊦に続く)



語句の解説

注1 消えた高齢者

 東京・足立区で昨年7月、戸籍上では111歳で生存しているとされていた男性の遺体が発見されたが、その後の捜査で、男性がすでに30年以上前に死亡していたことが判明した。この事件を機に、全国の自治体が高齢者の安否確認を進めた結果、住民票や戸籍が残っていてもすでに死亡していたり、行方不明となっているケースが各地で多数あることが明らかとなり、大きな社会問題となった。

注2 毒矢の譬え

 観念的な議論にふける弟子を戒めるために、釈尊が説いた譬え。“毒矢で射られて苦しんでいる人がいたが、だれが矢を射たのか、矢はどんな材質だったのかが判明しないうちは治療してはならないと本人がこだわったために、そのうちに亡くなってしまった“との譬えを通し、何よりもまず人々の苦しみを取り除く現実の行動に仏教の本義があることを諭した。

注3 ゼノンのパラドックス

 弁証法(べんしょうほう)の祖と呼ばれるゼノンは、飛んでいる矢も瞬間瞬間の姿を捉えれば、それぞれ空間の一定の位置を占め、静止しているとの逆説を説いた。また、俊足を誇るアキレスと競走するにあたって、前方でスタートを切ることを望んだ亀は、アキレスが亀が最初にいた出発点に着く頃にはさらに先に進み、またそこに着いた時にはその分だけ先に進んでいるというように、アキレスには亀に対し無限に続く遅れがあるために永遠に追いつけないとの詭弁(きべん)を展開した。