随筆 我らの勝利の大道 29  2010-09-20

「人間革命」と我が人生㊤


 万年の
  広宣流布の
    歴史をば
 勇み綴らむ
     筆の力で

 今月の本部幹部会、また全国青年部幹部会の席上、小説『新・人間革命』第二十四巻の連載を、十月一日から開始する旨を発表させていただいた。 早速、多くの方々が期待の声を届けてくださった。真心がありがたい限りだ。 この読者との心の交流があればこそ、「月月・日日」に、ペンを揮って書き進めることができる。

 前作の小説『人間革命』(全十二巻)は、連載「千五百九回」で完結した。 恩師との思い出深き長野の地で、『新・人間革命』第一巻の執筆を始めたのは、一九九三年の八月六日、広島の「原爆の日」であった。平和への祈りと誓いから書き起こした。おかげさまで、連載は、四千四百五十回を超えた。

 『人間革命』と『新・人間革命』の二つを合わせた通算の連載回数は、奇しくも、今年の十一十八日付をもって、「六千回」を迎えることになるようだ。 創立八十周年の学会創立記念日の大佳節を、恩師に捧げる言論闘争で築き上げた金字塔をもって慶祝できることは、弟子として誠に喜びに堪えない。 あらためて、わが聖教新聞を愛読し、支えていただいている読者の皆様方に、心から御礼申し上げたい。
  富士の如く立て!

 君もまた
   不動の信念
       不二の山

 今回、SGI(創価学会インタナショナル)の青年研修には、世界六十カ国・地域の二百五十人の若き広宣流布のリーダーが弾ける生命の息吹で集ってくれた。連日、真剣な研修に尊い尊い金の汗を流し、一段と立派に成長して帰国された。 すでに、それぞれの使命の天地で、新たな「人間革命」の前進を勇気凛々とスタートしたことを、手紙やファクスで送ってきてくれている。青年の反応は早い。

 特に皆、関西の各県で、熱烈に同志の歓迎を受け、学会精神を学ぶことができた感動を綴っている。また、献身的に迎えてくれた通訳の友や役員のメンバーへの感謝の思いも深い。 南米のある友は、学会本部から東京牧口記念会館へ向かうバスの中から、彼方に富士山を仰いだ喜びを記していた。やはり、無言にして無限の励ましを送ってくれる妙なる山である。

 富士の山を「不二の山」とも書く。 わが生命は、二つとない不二の命である。自分自身に自分自身が聳え立つ。それが、不二の山なりと言った哲人がいる。 己自身が、尊極なる妙法の当体である。無上の生命の宝塔である。二人といない、不二の人なのである。

 ゆえに、自分自身が富士の如く聳え立って、不動の信念に生き切ることだ。元初からの自らの誓願に生き抜くことである。 世界の英邁な青年リーダーたちが、いかなる嵐にも揺るがぬ富士を胸に光らせ、厳然と、また悠然と勝利の人生を飾っていくことを、私は祈り続けている。 富士の如く――そこに、わが師・戸田城聖先生が示してくださった「人間革命」の一つの指標がある。


  師の真実を後世に


 インドネシアの大文豪プラムディヤの名作に、こうあった。 「(人は)書くということがないかぎり、社会に埋もれ歴史から消えてしまう」「文章を書くのは永遠に向けた作業である」私は十九歳で戸田先生に師事し、その偉大なご境涯を知るにつけ、誰かが先生の伝記小説を書くべきだとの思いを抱いてきた。 ことに、昭和二十九年の八月、先生が故郷・厚田村に、私を連れて行ってくださった折には、師匠の崇高な生涯の物語を、いつか自分の手で書き残さねばならないと、深い深い因縁を感じたのである。

そして、その執筆こそ、わが生涯の使命なりと深く心に定めたのは、戸田先生が最後の夏を過ごされた、昭和三十二年の八月十四白、長野県・軽井沢の天地であった。 私は、その前日の十三日、軽井沢で静養されていた先生に呼ばれて、馳せ参じた。東京の荒川区で、地域に根を張った模範のブロック組織をつくろうと、懸命に指揮を執っていた最中であった。

 戸田先生に荒川での戦いを報告するとともに、間近に予定されていた北海道指導についても、打ち合わせをさせていただいた。 当時は、夕張炭労事件の直後であり、先生のご訪問に、私はすでに細心の注意を回らして準備に当たっていた。その弟子の周到な布石を聞かれた先生が、深い安堵の笑みを浮かべられたことが、思い起こされる。

 師弟の対話は、戸田先生が「妙悟空」のペンネームで聖教新聞の創刊時から連載され、単行本として発刊されたばかりの小説『人間革命』にも及んだ。 先生は、私が語る率直な感想を嬉しそうに聞いておられた。そして、ポツリと言われた。 「牧口先生のことは書けても、自分のことを一から十まで書き表すことなど、恥ずかしさが先に立って、できないということだよ」


 戸田先生(妙悟空)著の『人間革命』は、文字通りフィクションとして書かれた前半と異なり、後半ではご自身がモデルである主人公の「巌さん」に、先生の実体験が重ねられていく。 そして、この巌さんが、獄中で広宣流布のために生涯を捧げようと誓願を立てる場面で、小説は終わるのだ。

 しかし戸田先生は、出獄後のご自身の戦いについては、何も書こうとはされなかった。 私は、その夜、宿舎で、先生の言葉を何度も反芻しながら思索を重ねた。真剣な省察のなか、戸田先生のご生涯とご精神を誤りなく後世に伝え、創価学会の真実を永久に残すことは、師の私への記別なりと強く思われた。いな、先生に代わって『人間革命』を執筆することは、不二の弟子としての私の使命だと、固く心に誓ったのである。

 その決意をもって、私は八月十四日を迎えた。初めて戸田先生にお会いしてから、満十年の日である。早朝、私は地元の軽井沢のメンバーと勤行し、真心込めて激励したあと、東京に舞い戻った。 この十四日の夜、私は、一緒に勇敢に奔走してくれた荒川の壮年の代表へ、扇子に一文を認めて、お贈りした。 「波浪は障害にあうごとに その頑固の度を増す」 広宣流布のため、苦楽を共にした同志のことは、胸奥から離れることはない。子々孫々に功徳が薫りゆくことを祈る日々である。 本年八月には、立派な荒川平和会館もオープンした。今、全国各地に、福徳あふれる広布の新会館が、誕生している。

 新たな地涌の人材が競い集って、「人間革命」の歓喜の舞を舞いゆく躍進の時が到来しているのだ。


   「母の詩」の章から

 ドイツの社会学者のマックス・ウェーバーは、尊敬する伯母から、よく「私の生は重い生だった」という言葉を聞かされたという。 「重い」とは、決して、つらいとか、苦しいという意味ではなかった。 それは「『私はよい戦いを戦った』という意味であった」と、ウェーバーは敬愛を込めて語っている。 胸に染み入る言葉だ。 「よい戦い」を戦い抜き、自分らしく、悔いない価値ある人生を飾った人が勝利者であろう。 『新・人間革命』の第二十四巻は、「母の詩」の章から始める予定である。 そもそも「人間革命」という希望の大哲学を、誰よりも生き生きと、神々しく示してこられたのは、広布の母たちに他ならない。 日蓮大聖人の御在世、夫に先立たれ、頼りにできる親族もないなか、迫害に動ぜず、けなげな信心を貫く一人の無名の母がいた。

 大聖人は、この妙法尼に対して仰せになられた。「釈尊の養母であり、最初の女性の仏弟子となった摩訶波闍波提比丘尼と比べても、雲泥の違いほど貴女の方が優れておられると、釈尊は霊鷲山で御覧になられていることでしょう」(御書一四一九~二〇㌻、趣意)

 最も偉大なのは、最も苦労をしながら、妙法流布に生き抜いている母である。悩める人、苦しむ人がいれば同苦し、真剣に祈り、励ましてくれる。まさに経文に仰せの「如来の事を行ずる」尊き姿である。

 この母たちの人生ほど、高貴にして希望光る足跡は、どこにもあるまい。それは、いかなる苦難にも負けぬ変毒為薬の実証でもある。宿命を使命の大舞台に転じゆく歴史であり、「冬は必ず春となる」との法理の証明である。


                
 デンマークの童話王アンデルセンは言った。 「人生は一編の麗しい物語である、それは私に歓喜の声を上げることを教えてくれた」 この人生という物語を、万人が「歓喜の中の大歓喜」で織り成していくために、信心がある。 大聖人は、障魔の嵐と戦う、池上兄弟と夫人たちの敢闘を讃えて仰せである。 「未来までの・ものがたり(物語)なに事か・これにすぎ候べき」(同一〇八六㌻)

 この通りに、大聖人直結の創価の母たちは、幸福と勝利の実証を示し、日本中、世界中で、広宣流布の大道を、一心不乱に切り開いてこられた。これこそ、未来永遠に語り継がれる、生きた仏法勝負の物語であり、不滅の「人間革命」の物語ではあるまいか。 戸田先生は言われた。 「学会を作ってくれたのは、庶民の婦人部である。それを忘れてはならない。 婦人部が一番、大事だ。 大作よ、この土台の尊い方々を、讃え、護ってくれ給え」 今、「母の詩」を書き綴りゆく私の心にも、この恩師の叫びが響いている。

  母の詩
   母に幸あれ
     母の日々