随筆 我らの勝利の大道 15 10/06/06

◆「地区」こそ創価家族の広布城 (上)


ここに使命が!ここで勝つのだ!
最前線に勇気と歓喜よ燃え上がれ

 この天地
  われらの使命の
    広布城

 六月六日は、創立の父・牧口常三郎先生の誕生日である。明治四年(一八七一年)生まれであられた。

価値創造の人生を

 今年は、先生が『創価教育学体系』を発刊されて八十周年の佳節でもある。 牧口先生は語られた。 「遠大な理想をいだき、目的観を明確にしながら、身近な足元から実践するのが、正視眼的生活である」 理想は遠大に! 目的は明確に! そして実践は足元から! これが、偉大な殉教の先師が示してくださった「創価」すなわち価値創造の哲学である。

     ◇

 六月六日は、欧州SGI(創価学会インタナショナル)の日でもある。 この欧州にあっても、牧口先生に連なる創価の友は、溌剌と社会貢献のスクラムを拡大している。 欧州の大河の王者ライン川の中流に位置するドイツ・ビンゲン市には、SGIの「ビラ・ザクセン総合文化センター」がある。地域の方々から親しまれる文化と友情の城である。 それは、大文豪ゲーテが「ここから見るライン川が一番美しい」と絶讃した景勝の天地である。 地域社会のために労苦を惜しまず行動したゲーテのモットーは、「我々の捜しもとしか求むる物はここにあり、然らざればいずこにも無し」であった。 あくまでも、自分のいる「ここ」が使命の場だ。「ここ」で勝つのだと、腹を決めて戦ったのである。 ゲーテは「足をしっかり大地につけてい給え」と、友を励ましてもいる。 広宣流布という、平和と幸福の人華を世界中に咲かせゆく大偉業も、地域に根を張ることから始まる。 最も健気な地区の友が、勇敢にして堅実に、信頼の尊き根を張りめぐらしてくださっている。ゆえに、わが創価学会は盤石なのだ。

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 昭和二十六年五月三日、第二代会長に就任された私の師・戸田城聖先生は、「七十五万世帯」の大折伏を宣言された。 余りにも大きな目標に、ただ聞き流している幹部もいた。どうすればよいのか、呆然とする先輩もいた。 しかし私は、この師匠の大願に、眼前の現実を一歩でも近づけていくのだと、誓いを立てた。そして、その闘争の眼目を「地区」に定めた。 わが地区から、楽しく、明るく、元気いっぱいに先生の願業達成へ突破口を開いてみせると、若き闘魂を燃え上がらせたのである。 当時の日記に、私は決意を綴った。「吾が地区を、充実させることに奔走いたすべきこと」――。 この時、私は東京・大田区を地盤とする蒲田支部の大森地区委員であり、男子部の班長であった。地区委員は現在の地区部長、第一線を走る班長は、現在の男子地区リーダーともいえようか。

誠実に真剣に!

 私は二十三歳。地区の方々は、年上ばかりである。礼儀正しく、誠実に接することを心がけたのは言うまでもない。 しかし、戸田先生を思い、学会を思う真剣さは誰にも負けなかった。 「九層の台も累土より起こり、千里の行も足下より始まる」――これは、トルストイも大切にしていた『老子』の言葉である。 大事をなす出発点は身近にある。足下にあるのだ。 地区は皆の顔が見える。だからこそリーダーの真剣な一念が、鏡に映るように皆の心にそのまま表れる。 私は、わが地区の大発展を祈りに祈った。一人ひとりの宝の友を励ましに励ました。青年らしく率先して拡大へ走りに走った。 「力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし」(御書一三六一ページ) 学会活動は、この御文に寸分違わぬ闘争である。

大埼玉へ走る!

 この昭和二十六年の秋、私は、まだ数少なかった教学部員として、御書講義の担当者に任命された。 私の担当は、無限の可能性を秘めた天地・埼玉の川越地区であった。 戸田先生の名代として、地区の同志の胸中に、日蓮大聖人の「立正安国」の精神を打ち立てていくのだ。 〝わが川越を日本一の地区に!〝〝縁深き大埼玉の同志と共に勝利を!〝 私は、強く深く祈念しながら、懸命に埼玉と東京の往復を重ねたのである。 足かけ三年。遠い地道な道のりであった。だからこそ、埼玉には手作りの金の
広布城が光っている。

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 「地区を大切に!」とは、恩師の信念であった。 戸田先生は、地区をはじめとする第一線組織のリーダーたちを、最大に讃え、激励された。 「あなた方ありてこそ、日本が救われる。あなた方こそ、尊い一粒の種であり、一番大事な方々だ」 どれほど偉大な、崇高な使命の人生であることか。 私の妻も、戸田先生のもとで、女子部の班長として奔走した。 さらに婦人部となってからは、班担当員、地区幹事など、幼子を抱えながら、現場を駆けずり回った。一緒に活動した同志の方々が、福運に満ちた嬉しい近況を、今も折々に伝えてくださっている。

全幹部が第一線に

 ともあれ、組織の最前線が元気に、そして、がっちりと団結して、朗らかに前進することが、広宣流布の希望の実像なのである。 ゆえに、創価の全リーダーが火の玉となって第一線に飛び込み、地区に勇気と歓喜の光を送りゆくのだ。 励ましの波動を起こし、正義の同志の陣列を幾重にも広げゆくのだ。 「地区を勝たせること」 「支部を勝たせること」 これが、戸田先生の戦いの根本の力点であった。 不二の弟子である私も、常に担当した地域の「地区」「支部」を勝たせるために、全力で支え、守った。それを、誰よりも知り、喜んでくださったのは戸田先生であった。 若き広布の英雄たる男子地区リーダー諸君、そして希望の華陽姉妹である女子地区リーダーの皆さん! 断固、先駆を頼む! 雄々しき黄金柱・地区部長、輝く広布の太陽・地区婦人部長の皆様!  創価完勝の旗を共々に! この私の心を心として、全幹部が、大切な大切な地区を支えていただきたい。

大関西も地区発で

 日本中を驚嘆させた昭和三十一年の「大阪の戦い」――その威風堂々の出陣も
また、地区発であった。 一月五日、懐かしき関西本部で、私は地区部長会を開き、誉れ高き地区幹部たちと誓いの戦列を組んだ。 すなわち「強盛な祈り」「最高の作戦」「最高の行動」こそ、絶対勝利の要諦である。それを事実の上で調和させゆくものが、「信心」である。この勇気ある信心に、全関西の地区幹部が心のギアを合わせてくれたのだ。 「法華経に勝る兵法なし」である。断じて「信心で勝つ」と決め、私たちは、不可能を可能にしゆく道を突き進んでいった。 私は、最前線の地区幹部の方々と共に、大阪の隅々まで駆けた。 病気の友がいた。生活苦の婦人も、仕事で苦闘する壮年もいた。両親が信心に猛反対という青年もいた。 いや、悩みのない人など、一人もいなかったといってよい。 その一人また一人の生命と、私は向き合い、心血を注いで励まし続けた。 「逆境によく耐える魂は、あらたな、より大きな強さを獲得するだろう」 これは、十八世紀、あの名門グラスゴー大学の教壇に立った哲学者ハチスンの確信であった。 苦しい、人知れぬ労作業を積み重ねながら、関西の友は、悩みを広宣流布の大願に変え、人間革命の勇気の行動に変え、使命の主戦場に躍り出ていったのだ。 「眠れる獅子は立ち上がった!」と、烈々と叫んだ地区部長もいた。 必死の一人は百万軍にも勝る。腹が決まった地区部長を先頭に、その地区は、限界を破る拡大を成し遂げてくれた。

人材は必ずいる!

 激しい大阪の戦いの中で、一人の幹部が「わが地域には人材がいません」と悩みを口にした。 私は強く申し上げた。 「人材は必ずいるよ。そう決めて題目をあげていきなさい」と。 そのリーダーは、私の言った通りに祈り抜き、新たな心で、地区を回ってみた。すると、実は「皆が人材」であることに気づいたというのである。 「いない」と決め込み、自分の目に見えなくなっていたのだ。信心の眼を開いて見れば、かけがえのない同志と共に戦える感謝と喜びが湧いてくる。 広布の戦野は広い。創価の組織は深い。いかなる人であれ、果たすべき使命が必ずある。 大聖人が「地涌の義」(同一三六○ページ)と仰せの通りに、自らが一人立てば、二人、三人、さらに陸続と、地涌の菩薩が現れることは、絶対に間違いない。 関西の全地区が総立ちとなった時、歴史は動いた。 五月には、大阪支部は一カ月で一万一千百十一世帯の折伏という未曾有の金字塔を打ち立てた。 そして七月には「〝まさか〝が実現」と、世間をあっと言わせる大勝利を開いたのである。

 広宣の
  英雄の君
   赫々と
  不滅の足跡
    いざや創れと