随筆 我らの勝利の大道 8 10/03/04
創価家族は永遠に前進 ㊤

偉大なる
若き後継
登場の
世紀の舞台は
遂に来たれり

それは一七八九年。あの名高き「フランス大革命」の開幕を告げて、一人の革命家は高らかに叫んだ。「時はきた。錨綱を切れ!」この言葉を引きながら、歴史家ミシュレは綴った。「革命の船は、この日以後、嵐にも雨にもかかわりなく」「けっしてとどまることなく、未来に向かって進む」我らは未曾有の広宣流布の大航海に船出した。わが「創価の大船」も、嵐があろうが、怒濤があろうが、民衆の栄光勝利をめざして邁進する。「日蓮一度もしりぞく心なし」(御書一二二四ページ)。この師子王の御心を拝し、「前進!」の勇気を掲げて進むのだ。その先頭を駆けるのは、男子部、女子部、男女学生部の青年たちである。今や〝学会三世〝〝学会四世〝も草創の精神を学び、尊き父母の心を受け継いで、伸び伸びと活躍している。さらにまた、わが〝創価家族〝には、あの地この地で、希望に輝きながら、新たな会員が生まれ、新たな人材が台頭している。「二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」(同一三六〇ページ)と仰せの通りだ。 若々しき「地涌」の生命の息吹に触れることは、最も心躍る喜びである。親から子や孫の世代へ、脈々と、信心後継の「タテの拡大」は続いている。さらに友から友への「ヨコの拡大」も、歓喜のスクラムを広げている。この迸る信心の連動にこそ、我ら〝創価家族〝の永遠の前進の実像がある。


この人生
この一生を
幾世代
価値ある日々と
広布に生き抜け

創立八十周年。学会は今再び大躍進の春を迎えた。それは、わが組織の最前線に、「新しい力」「新しい人材」が生き生きと躍動するということだ。生命は、瞬時も立ち止まらず変化する。新陳代謝を繰り返し、自らを革新していく。このダイナミックに変わる力そのものが、生命の本質といってよい。常緑の高木「ユズリハ(譲葉)」は、新しい葉が出るまで、古い葉が待っている。新しい世代の成長を温かく見守るように!組織を一つの生命体とみるならば、「新しい力」「新しい人材」の台頭は、本然の正しき法則なのだ。「あとからつづく者たちも、ほら、そこに、我らのうしろに胚芽の姿で控えている」と、民衆詩人ホイットマンも歌った通りだ。凍てついた大地の中で、じっと力を蓄えた新芽は、時を逃さずに頭を上げる。そして、勢いよく大地を破って現れる。ゆえに私は、懸命に祈り続けてきた。新しき人よ、はつらつたる青年よ、湧き出でよ!全同志の胸から、新しき力よ、燃え上がれ!新時代を創るもの世界を変えてきたあらゆる変革は、誰かが一人で成し遂げたものではない。一人が立ち上がる。呼応した一人が続く。その波動が広範な民衆を糾合し、新たな力と声のうねりが、歴史を変えてきたのである。フランス大革命もそうであった。モンテスキューやルソーやボルテールらの啓蒙思想が民衆の一人一人を鼓舞し、時代を動かしていったのは、有名な史実だ。〝新しい力の台頭〝が、〝新しい時代〝を創る。これが歴史の常である。日蓮大聖人の御在世である弘安二年(一二七九年)、権力と結託した坊主どもの陰謀によって、何の罪もない農民の門下が囚われた。「熱原の法難」である。正義の大仏法に目覚めた民衆はいかなる脅しにも屈することなく、題目を唱え抜いていった。リーダーである神四郎、弥五郎、弥六郎の三兄弟は壮絶な殉教を遂げたのである。この「熱原の三烈士」が仏法に巡りあったのはいつであったか。前年の弘安元年頃である。すなわち入信一年ほどにして、永遠に謳われゆく不惜身命の鑑を留めたのである。わが師・戸田城聖先生は、この史実を通して、「信心は、年数ではない。勇気である。勇気ある信心の人こそが一番、偉大なのである」と教えられた。



戦後の創価学会の隆々たる大発展を見るがよい。それは、日本を驚嘆させた「新しき大民衆運動」であった。昭和二十六年五月三日。戸田先生は会長推戴式で、烈々と師子吼された。「七十五万世帯の折伏が達成できなければ、私の屍は品川沖に投げ捨てよ!」当時の会員数は、約三千人にすぎなかった。七十五万世帯へは、実に二百五十倍の拡大となる。大半の会員は、いったい、いつまでかかるのかと呆然とした。しかし私たち青年部が突破口を開き、結果から振り返れば、六年と半年で達成したのだ。

年末ごとの世帯数は――
五千七百世帯(二十六年)
二万二千世帯(二十七年)
七万四千世帯(二十八年)
十七万世帯(二十九年)
三十万七千世帯(三十年)
五十万世帯(三十一年)
そして七十六万五千世帯(三十二年)――である。

七十五万世帯の目標が完遂された時点で、学会員の約八割が入会して三年以内のメンバーであった。今日の世界的な創価学会の基盤を創った大拡大は、誰によって実現したのか。それは、師弟共戦の大行進に勇んで連なった「新しき人材」の力で遂行されたといっても過言ではない。昭和二十七年の蒲田支部の「二月闘争」も、翌年の文京支部の「大前進」も、新会員と共に、新たに発心した方々と共に、そして慈愛の婦人部と共に、情熱たぎる青年と共に、私は勝ち開いたのである。埼玉から勝鬨が!昭和二十八年の年頭、師・戸田先生より直々に、私は男子部の第一部隊長の任を拝した。二十五歳。今のヤング男子部の年代だ。「年末までに各部隊千人への拡大」――これが師から示された目標であった。出発時点の第一部隊の勢力は三百三十七人。つまり、三倍の拡大となる。その新たな拡大の〝決定打〝を放ってくれたのが、埼玉のメンバーであった。拡大戦の締めくくりとなる、年末の第二回男子部総会が迫るなか、埼玉の羽生方面に点在していた並木班の友が大奮闘した。班長は週末、東京から泊まりがけで何度も通い、一カ月余りの間に、爆発的な拡大を成し遂げたのだ。埼玉の若き英雄たちは総会当日、バスを貸し切り、群馬との県境から五十人の隊列を組み、勇んで集い来た。第一部隊千人の結集という大勝利が、これで決まったのである。「見事だ。よくぞ、ここまで戦ったな!」――私はメンバーが乗ったバスを、会場の入り口まで誘導し、大拍手で迎えた。私は、嬉しかった。埼玉から勝鬨が上がったのだ。新しき天地から、新しい人材が躍り出たのだ!当時の埼玉には、まだまだ男子部員は少なかった。それだけに、学会歌を意気高く歌い、次々とバスから降りてくる青年の姿に、幹部たちは驚いた。たとえ、一進一退の膠着状態に見えるところでも、絶壁に食らいついて、必死に戦っている友がいる。それを、目立つところだけ見て、健気な同志の陰の奮闘を見なければ、あまりにも傲慢な幹部だ。いずこであれ、一人立つ勇者が現れれば、必ず広布の火蓋は切れる。いかに困難であっても、そこに奮闘する友がいる限り、一人を誠実に励まし抜く。これが壁を破る鉄則だ。この勝利の日は「羽生県青年部の日」として、後継の若き師子が栄光の共戦譜を綴り続けてくれている。青春を我は勝ちたり君も勝て